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第6話

 朝の鐘が鳴って間もなく、ローエンハイム家の馬車が法院通りへ入ってきた。


 リーゼロッテは、侍女を一人だけ伴っていた。


 昨日の淡い青の衣装ではない。飾りの少ない灰白色の外套をまとい、胸元の真珠も外している。婚約を披露した令嬢ではなく、兄へ話をしに来た妹の姿だった。


 馬車から降りると、通りに置かれた机を見て、ほんの少し足を止めた。


「本当に、こちらでお仕事をなさっているのですね」


「十年近く嘘をつき続けるには、机が重すぎる。こいつは俺より正直者だからな」


「屋根もないのですか」


「雨の日は依頼人が減る。合理的だろ」


「書類が濡れます」


「そっちは合理的じゃない」


 アエミリアが椅子を引いた。


「どうぞ、リーゼロッテ様」


「ありがとうございます」


「俺には礼を言わないのか」


「兄様は、わたくしをお呼びつけになりました」


「来いとは書いてない。母上のやり方を真似した」


「馬車も寄越されませんでした」


「まだ修業中だ。年季が足らん」


 リーゼロッテは、わずかに口元を緩めてから椅子へ座った。


 侍女は少し離れた場所に立った。


 法院の門は開いていたが、通りにはまだ人が少ない。馬車が机の外側へ壁を作り、往来から書面を隠していた。


「お読みになったのですね」


「読んだ。字が上手くなったな」


「十年ぶりのお褒めの言葉が、署名についてなのですか」


「内容は褒めてない」


「そうでしょうね」


「この署名はお前が書いたのか」


「はい」


「誰かがお前の手を持って書かせた」


「いいえ」


「別の紙だと言われた」


「いいえ」


「読まずに署名した」


「読みました」


「全部」


「はい」


 返事は淀まなかった。


 ヴァンフリートは署名を指で示した。


「なら、ここまでは簡単だ。署名は本物。書いたのもお前。誰かが筆を握らせたわけでもない」


「初めから、そう申し上げています」


「お前が言ったから事実になるわけじゃない。確かめて同じだったから事実になる」


「兄様は、家族の言葉も疑うのですね」


「他人より少し多めに疑ってる。家族割だ」


「それは公平なのですか」


「家族を信じたがる分の重石だ」


 リーゼロッテは返事をしなかった。


 アエミリアは条件書を開き、彼女の前へ置いた。


「内容を、順に確認してもよろしいでしょうか」


「兄様は、既にお読みになったのでしょう」


「先生がどう読んだかではなく、リーゼロッテ様がどのように説明を受けたかを確かめたいのです」


 リーゼロッテはアエミリアを見た。


 昨夜の屋敷では、家族全員の視線が彼女の答えを待っていた。


 今、アエミリアの目には、望む答えがなかった。


「分かりました」


 最初に持参財産の頁を開いた。


 アエミリアは、将来相続する土地から上がる収益の一部が、婚姻後もアーデルスドルフ家へ渡ることを確かめた。


「この条件については、どのように説明を受けられましたか」


「両家の格にふさわしい婚姻支度であると」


「毎年の収益も含めてですか」


「はい」


「多いとは思わなかったのか」


 ヴァンフリートが尋ねた。


「少なくはないと思いました」


「ずいぶん上品な言い方だな。水に沈みながら、少し湿ってると言うのと同じだ」


「兄様は、何でも大袈裟に仰います」


「お前の財産が大袈裟だから、釣り合いを取ってる」


 リーゼロッテは持参財産の頁を見た。


 その顔には困惑があった。だが、恐れはなかった。


 金額が大きいことは理解している。それでも、その財産を失うこと自体が、彼女を署名へ向かわせたものではない。


 アエミリアは頁をめくった。


 ルートヴィヒの任官支援について尋ねると、リーゼロッテは、父とコンラートが能力を確認したと聞いている、と答えた。


「兄上が保証なさるのであれば、問題はないと思いました」


「兄上が間違えないなら、俺は家を出てない」


「それは、兄上に失礼です」


「父上にも失礼だ。平等だろ」


「平等の使い方を間違えておられます」


「助手と同じことを言うようになったな」


「正しいことは、似るのではありませんか」


「この家に置いておくには惜しい。法院通りで働くか」


「結構です」


 断る声が早かった。


 アエミリアは目を伏せたが、その口元にはかすかな笑みがあった。


 次に、婚約解消時の責任を示した。


 リーゼロッテ側から成立を拒んだ場合、既に使われた費用だけでなく、失われる姻戚上の利益と任官準備まで負担する。相手方から解消した場合には、同じ責任が置かれていない。


「これも読みましたか」


「はい」


「おかしいとは」


「思いました」


 リーゼロッテは静かに答えた。


「けれど、わたくしから解消するつもりはありません」


「だから不利でも構わない?」


「使わない扉に、重い鍵がついていても困りません」


「火事になってから同じことを言えたら、褒めてやる」


「兄様は、わたくしが不幸になると決めておられるのですか」


「違う。幸福になる予定だから、逃げ道を塞いでいいと言う人間を信用してない」


 リーゼロッテは条件書へ目を落とした。


 ヴァンフリートはそれ以上言わなかった。


 アエミリアが、最後の頁を開いた。


 過去の紛争へ新たな異議を述べないこと。

 既に処理された婚約上の手続について再調査を求めないこと。

 その件に関わった者の名誉を損なう公表を行わないこと。

 現在の婚姻をもって、両家の争いを解決済みとすること。


 アエミリアが条文を読み始めた時、リーゼロッテの指が止まった。


 持参財産の頁では、金額を示されても動かなかった指だった。


 再調査を求めないという一節で、右手の指先が紙の端へ触れた。


 異議を述べないという文言を確認した時には、その指がわずかに曲がった。


 家名を傷つけた場合の責任へ進むと、右の親指が左手を押さえた。


 昨夜、ヴァンフリートが指摘した癖だった。


「リーゼロッテ様」


 アエミリアが呼んだ。


「はい」


「持参財産より、こちらの条項を気にしておられるのですね」


 リーゼロッテは指を離した。


「書面の中で、最も大切な条件ですから」


「誰にとって」


 ヴァンフリートが尋ねた。


「両家にとってです」


「お前にとっては」


「わたくしも、ローエンハイム家の人間です」


「便利な答えだな。家族全員の利益を一人の口で喋れる」


「皮肉を仰るために呼ばれたのですか」


「違う。皮肉はサービスだ」


「先生」


 アエミリアが低く呼んだ。


「分かってる」


 ヴァンフリートは椅子へ背を預けた。


「この過去の紛争について、何を聞いた」


 リーゼロッテは、すぐには答えなかった。



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