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第5話

 翌朝、法院通りの机には、白い花の代わりに婚約条件書が置かれていた。


 夜の冷気を吸った石畳から、薄い霧が立っている。法院の門が開くにはまだ早く、通りを行くのは荷車と、眠そうな顔をした下働きばかりだった。


 アエミリアは外套の襟を寄せ、綴りの最初の頁を押さえていた。


 風が吹くたび、紙の端が小さく震えた。


「屋敷の中でお読みになればよろしかったのでは」


「家族の顔を見ながら読むと、紙に書いてないことまで読んだ気になる」


「こちらでは、紙が飛んでいきます」


「家族より扱いやすい。重石を置けば黙るんだからな」


 ヴァンフリートはインク壺を条件書の端へ置いた。


「それは依頼人からの預かり物です」


「心配するな。漏れて困るほど入ってない」


「インクのことを申し上げています」


「そっちか」


 アエミリアは小さく息をつき、最初の頁をめくった。


 婚約する二人の名と家名、生年月日、両家の承諾、登録申請の予定が記されている。そのあたりに、不自然なものはなかった。


 不自然なのは、書面がその先も続いていることだった。


 リーゼロッテが持参する財産について、現金だけでなく、母方から将来受け継ぐ土地と王都屋敷の持分まで定められていた。土地そのものは彼女の名に残るが、そこから上がる収益の一部は、婚姻後もアーデルスドルフ家へ継続して渡る。


 婚礼の日に渡して終わる支度ではなかった。


 まだ実っていない作物も、これから積まれる家賃も、先に嫁入りさせる書き方だった。


「リーゼロッテ様御自身の財産として残るのではないのですか」


「木は残る。実は向こうが食う」


「管理のための費用と書かれています」


「食べる前に皿を洗えば、夕食代を請求していいらしい」


「通常の持参財産にも、管理を委ねる条件はございます」


「通常ならな」


 ヴァンフリートは頁の下を指で叩いた。


「これは管理権を渡してない。収益だけ渡してる。木の病気も、小作人との争いも、境界の補修もローエンハイム持ちだ。向こうは実った時だけ家族になる」


「収穫が少ない年にも、一定の支払いを求めていますね」


「雨が降らなければ、妹が雨雲の代わりに金を出す。働き者の花嫁だ」


 その額は、ローエンハイム家の婚姻支度としても大きかった。


 だが、財産を多く渡すことだけなら、家同士の思惑で説明はつく。貴族の婚姻は、二人の寝室へ土地の境界まで連れてくる。珍しくはない。


 珍しくないものの中へ、一つだけ異質なものを混ぜるのが、条件書の常だった。


 ヴァンフリートは次の頁をめくった。


 ルートヴィヒが法院の職を求める際、アルブレヒトとコンラートがその能力と品行を保証し、推薦を行うとあった。


「まだ官職にも就いていない方の能力を、先に保証なさるのですか」


「未来の保証だ。占い師より立派な服を着てる分だけ高くつく」


「必要な教育を修めたことは、確認されているのでしょう」


「教育を受けた人間が全員有能なら、法院は今ごろ賢人で満員だ。実際には椅子が人間を支えてる時間の方が長い」


 アエミリアは書面を読み返した。


「推薦そのものは、不正ではありません」


「そうだ。だから厄介なんだ。不正じゃないものを重ねると、最後に断れない取引ができあがる」


 アルブレヒトは長く法院に関わり、コンラートも記録実務で信用を積んでいる。二人が揃って能力と品行を保証すれば、単なる親族の推薦では済まない。


 ルートヴィヒが得るのは、一度の口添えではなかった。


 ローエンハイム家がこれまで失わずにきた信用を、彼の将来へ敷く約束だった。


「相手の家は、ずいぶん妹思いだな」


「なぜですか」


「夫の職まで持参させてくれる。妹は嫁いでからも暇にならない」


 ヴァンフリートは頁を繰った。


 婚約を解消した場合の条件は、さらに一方へ傾いていた。


 リーゼロッテ側から婚約の成立を拒み、または登録後に解消を求めた場合、既に生じた費用だけでなく、失われる姻戚上の利益と任官準備に対する責任まで負う。


 けれど、アーデルスドルフ側から解消した場合については、実費を精算するとあるだけだった。


「片方だけが重いのですね」


「公平だろ。向こうは軽く、こっちは重い。二つ合わせれば平均になる」


「なりません」


「知ってる」


 アエミリアは顔を上げた。


「先生は、時折、間違いをあまりにも自然に仰いますね」


「正しいことは、たいてい説明が長い。間違いは短くて便利だ」


 それまでヴァンフリートは、紙面の上を急がずに進んでいた。


 次の頁を開いた時、その指が止まった。


 両家は、過去に処理された紛争について新たな異議を述べない。


 既に終結した婚約上の手続について、登録簿その他の記録の再調査を求めない。


 当時の関係者について、その名誉を損なう公表を行わない。


 ルートヴィヒとリーゼロッテの婚姻成立をもって、両家の争いは解決済みとする。


 そこだけ、文体が違っていた。


 花嫁と花婿の生活を定める文章ではない。争いがあったことだけを残し、その中身を誰にも見せないための文章だった。


「何の紛争でしょうか」


 アエミリアが尋ねた。


「書いてない」


「終結した婚約上の手続とは」


「それも書いてない」


「当時の関係者は」


「名前がない」


 ヴァンフリートは頁を裏返した。


 補足も、別紙への参照もなかった。


「ずいぶん立派な条項だな。何も書かずに、何も調べるなと命じてる」


「御家族なら、御存じなのでは」


「知ってる顔はしてた」


「先生は御存じないのですか」


「知らない」


「まったく?」


「俺が知ってるアーデルスドルフ家の不祥事は、当主の弟が依頼人の金へ手を出して、法曹資格を失ったことだけだ」


「この条項と関係があるのでしょうか」


「分からない」


 ヴァンフリートは即座に答えた。


「資格を失った男が同じ家にいる。それだけで、ここへ結びつけたら推理じゃない。家名が同じ人間を一つの罪へ詰め込む、貴族の噂話だ」


「では、この書面から分かるのは」


「過去に何かあった、とは限らない」


 アエミリアは、わずかに眉を寄せた。


「再調査を禁じているのにですか」


「この紙が証明するのは、書いた人間が再調査を嫌がってることだけだ。嫌がるだけなら、事件がなくてもできる」


「存在しない事件を、わざわざ婚約条件へ入れるでしょうか」


「入れた理由を知らないうちは、あるともないとも言えない。紙に怯えた顔をしてもらえれば、空箱でも人は金を払う」


 アエミリアはもう一度、条項の最初から目を通した。


「誰が、これを書かせたのでしょう」


「それを聞くところからだな」


 頁の下には、婚約する二人の署名があった。


 ルートヴィヒ・フォン・アーデルスドルフ。


 その隣に、リーゼロッテ・フォン・ローエンハイム。


 細く整った字だった。


 幼い頃、リーゼロッテは自分の名の最後を大きく跳ね上げる癖があった。母に何度直されても、そこだけは得意げに伸ばした。


 今、その癖は消えていた。


 名前は行の中へ美しく収まり、どの文字も隣を押しのけてはいない。


「妹の字だ」


「お分かりになるのですか」


「昔より上手い。つまらない字になった」


「褒めておられるのか、けなしておられるのか分かりませんね」


 ヴァンフリートは署名へ触れなかった。


 署名が偽物なら、誰が書いたかを探せばよい。


 本物であれば、本人が何を知って書いたのかを確かめなければならない。


 紙の上では、後者の方がよほど静かだった。

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