第4話
「分かった」
やがてヴァンフリートは言った。
いつものような棘はなかった。
「お前が助けを待っていたことにはしない」
リーゼロッテの肩から、力は抜けなかった。
「その代わり、お前が知っていることを俺にも教えろ。何を失うと承知して、何を守ると決めた」
「今は申し上げられません」
「知らないのか。言えないのか」
「その二つは、違うのでしょうか」
「違う。知らない人間は選べない。言えない人間は、言わせないものまで含めて選ばされてる」
リーゼロッテの指が、膝の上でかすかに動いた。
「必要なことは伺いました」
「誰から」
「兄様」
拒む声だった。
ヴァンフリートは質問を重ねなかった。
問い詰めれば答えが出るとは限らない。答えより先に、相手が自分の言葉を守るため嘘を選ぶことがある。その程度のことは、家の外で学んでいた。
「書面はあるな」
今度は父へ尋ねた。
「ある」
「条件も」
「双方が確認した」
「確認という言葉は、便利すぎて役に立たない。誰が何を読み、何に署名した」
「明日、写しを届けさせる」
「今ここにあるだろう」
コンラートの手が、卓上の書類入れへ戻った。
その動きだけで十分だった。
「これは家同士の書面だ」
「婚約するのは家同士か」
「お前は当事者ではない」
「その通りだ」
ヴァンフリートはリーゼロッテへ向き直った。
「だから、お前に聞く。俺が読んでいいか」
アルブレヒトが口を開きかけた。
「父上には聞いてない」
ヴァンフリートは言った。
それからコンラートを見る。
「兄上にもだ」
部屋の全員が、リーゼロッテの答えを待った。
それまで彼女の婚約について、幾度も話し合いが行われたはずだった。
だが、その中で本当に彼女一人の返事を待った沈黙が、何度あったのかは分からない。
リーゼロッテは、卓上の書類入れを見た。
「お読みになれば、兄様は破談になさろうとします」
「俺にその権限はない」
「兄様は、権限がなくても動かれる方です」
「よく知ってるな」
「妹ですから」
その言葉だけは、今夜のどの言葉よりも昔と同じ響きを持っていた。
リーゼロッテは息を整えた。
「お見せします」
「リーゼロッテ」
マルガレーテが娘の名を呼んだ。
止める声ではなかった。
続きを促す声でもない。
娘が自分で選ぶ瞬間に、初めて自分の手を離さなければならなくなった母の声だった。
「母上。兄様には、いずれ分かります」
リーゼロッテはコンラートへ手を差し出した。
「兄上。写しを、兄様へ」
コンラートは動かなかった。
妹の手だけが、二人の兄のあいだにあった。
やがて彼は書類入れを取り上げた。革紐を解き、中から薄い綴りを抜く。封は既に切られ、紙の角は揃い、汚れも折れもなかった。
人の一生について書かれた紙は、いつも人の手よりきれいな顔をしている。
コンラートが差し出すと、ヴァンフリートは受け取った。
表紙には、ただ婚約条件書とあった。
彼はその場では開かなかった。
「お読みにならないのですか」
リーゼロッテが尋ねた。
「今開けば、父上と兄上の顔ばかり読むことになる。紙は俺の机で読む」
「では、読んだ後に、わたくしへお尋ねください」
「何を」
「わたくしが、それでもこの婚約を望むかどうかを」
最初に彼が尋ねた時、彼女は同じ問いを退けた。
今、自分からその問いを返した。
ヴァンフリートは書類を抱え直した。
「分かった」
今度の返事には、兄としての慰めも、代言人としての約束も入れなかった。
まだどちらを口にしてよいのか、彼自身にも決められなかった。
アルブレヒトは暖炉の前に立ったままだった。
コンラートは空になった書類入れを閉じた。
マルガレーテは、ヴァンフリートの外套の胸元を見ていた。
そこに、自分の手紙が入っていることを知っている目だった。
帰り際、リーゼロッテが玄関まで見送りに出た。
老従僕が外套を持ってくるあいだ、兄妹は扉の前で向かい合った。幼い頃に聞いた柱時計が、廊下の奥で再び時を打った。
「兄様」
「何だ」
「わたくしは、不幸になりたいわけではありません」
「知ってる」
「でしたら、わたくしを哀れだと決めないでください」
「決めない。だが、喜んでるふりまで尊重しろとは言うな」
リーゼロッテはしばらく兄を見つめた。
「兄様は、少しも変わっておられませんね」
「この家に言われると悪口にしか聞こえない」
彼女は笑わなかった。
けれど、今度は唇を笑う形にも置かなかった。
その顔の方が、ヴァンフリートの知っている妹に近かった。
「ヴァンフリート」
マルガレーテの声がした。
彼女は応接の間の扉の前に立っていた。
「何だ、母上。来るとは思ってなかった、とは言うなよ。馬車まで寄越した癖に」
「あなたが使うとは思っていませんでした」
「俺もだ。乗ってみると歩くより楽だった」
マルガレーテは、わずかに笑った。
今夜初めて浮かんだ、作られていない笑みだった。
それはすぐに消えた。
「アエミリア様を、お連れくださってよかったわ」
「俺じゃ足りなかったか」
「あなた一人では、家族になってしまうでしょう」
ヴァンフリートは母を見た。
マルガレーテは、それ以上何も言わなかった。
助けてほしいとも、止めてほしいとも言わない。
ただ一度、息子の腕に抱えられた婚約条件書を見た。
「そうだな」
ヴァンフリートは言った。
「それが一番困る」
屋敷を出ると、夜の風が白い花の香りを追い払った。
馬車の中で、アエミリアはすぐには話さなかった。石畳の継ぎ目を車輪が拾うたび、ヴァンフリートの膝に置かれた書類が小さく震えた。
「先生」
「何だ」
「お母様は、助けてほしいと仰いませんでしたね」
「言えば俺が素直に助けると思うか」
「いいえ」
「なら、言わない方が正しい」
「けれど、先生が来ることは分かっておられた」
「母上は、俺の性格の悪さだけは信用してる」
アエミリアは窓の外を見た。
灯の遠ざかる屋敷で、白い花だけが水を吸っている。
「あのお屋敷では、どなたも一度も、おめでとうとは仰いませんでした」
ヴァンフリートは、外套の内側へ手を入れた。
母から届いた短い手紙が、そこにあった。
何も頼まなかった手紙だった。
だからこそ、捨てることができなかった。
祝いの酒は、最後まで誰の口にも触れなかった。




