第3話
ヴァンフリートが腰を下ろすと、アエミリアも一つ離れた椅子へ座った。
リーゼロッテは立ったままだった。
アエミリアが隣の椅子をわずかに引いた。勧める言葉は添えなかった。
リーゼロッテは一瞬その手を見てから、静かに座った。
それを待っていたかのように、アルブレヒトが告げた。
「リーゼロッテは、ルートヴィヒ・フォン・アーデルスドルフと婚約する」
「手紙で読んだ。母上の字は、父上の声より少し静かだがな」
「両家の承諾は済んでいる」
「俺へ知らせる頃には、もう済んでるわけか。仕事が早い家族で助かるよ」
「お前の承認を求めているのではない」
「安心した。俺も祝福を持ってきてない」
「兄様」
リーゼロッテの声は大きくなかった。それでも、アルブレヒトの言葉を止めた。
「わたくしが決めました」
部屋の中で、初めて誰かが用意された文句ではなく、自分の言葉を言ったように聞こえた。
ヴァンフリートは妹へ顔を向けた。
「何を決めた」
「この婚約をお受けすると」
「ルートヴィヒを選んだのか」
リーゼロッテは、わずかに間を置いた。
「同じことです」
「同じものなら、同じ言葉で言える」
「言葉尻を捉えないでください」
「言葉で決めた婚約だ。尻尾まで本人のものか確かめるってのが筋だろう?」
リーゼロッテの頬に、かすかな血の色が差した。
怯えではなかった。
怒りだった。
「わたくしは、もう子供ではありません」
「年齢は自由の証拠にならない。俺の疑いも証拠にはならない。だから聞いてる」
「誰にも命じられておりません」
「断れたのか」
「断ることはできました」
「何も失わずに」
リーゼロッテは答えなかった。
沈黙したのは彼女だけではない。
アルブレヒトの顎が固くなり、コンラートは暖炉へ目を向けた。マルガレーテの右手が、膝の上で左手を覆った。
手紙を書いた指だった。
助けを求める言葉を書かなかった指でもあった。
アエミリアは誰の顔も追い回さなかった。手元の帽子に指を添えたまま、問いの前と後で視線を逸らした者だけを見ていた。
「どんな選択にも、失うものはあります」
リーゼロッテは言った。
「それを承知して決めるのが、大人ではございませんか」
「自分で失うものを選べるならな」
「わたくしが選びました」
「だから、何を選んだのか聞いてるだろう」
「もう十分だ」
アルブレヒトの低い声が落ちた。
ヴァンフリートは父を見ずに答えた。
「娘の意思を尊重して婚約させたんだろう。なら、娘が答えるまで父親が黙るのも尊重のうちだ」
「お前は事情を知らない」
「知らされてないから来た」
「知る必要のないこともある」
「必要がないと決めたのは誰だ」
アルブレヒトは答えなかった。
「そう言えば、アーデルスドルフには不肖の男が居たよなぁ?」
その言葉に、アルブレヒトの顔は強張った。
暫しの沈黙が、重く居間の中を通り過ぎた。
「ルートヴィヒ殿は、必要な教育を修めている」
コンラートが、その沈黙を埋めるように言った。
「家格にも不足はない。本人に叔父と同じ問題はない。私が確認できる限りでは、品行にも問題はない」
「誰も叔父と同じだとは言ってない。家名を聞いただけで弁護が始まるとは、ずいぶん用意がいいな」
「誤解してほしくないだけだ」
「何を」
「昔のことと、この婚約をだ」
「横領して法曹資格を失った男のことか?」
コンラートは答えなかった。
父も、彼の代わりに口を開かなかった。
マルガレーテの指だけが、膝の上でわずかに動いた。
ヴァンフリートは一人ずつ顔を見た。
家族とは、互いに多くを知っている者たちではない。同じことを言わないでいられる者たちなのだと、その沈黙は語っていた。
「ルートヴィヒ様は、叔父君とは違います」
マルガレーテが言った。
その言葉は、息子へ説明するためというより、自分へ言い聞かせるために口へ出したように聞こえた。
「穏やかな方です。必要な教育も受けていらっしゃいます。リーゼロッテを粗末に扱うような方ではありません」
「褒め言葉が全部、悪人ではないという話だな」
「ヴァンフリート」
「人柄を褒める時に、犯罪者との比較から始める家は珍しい。俺ならもう少し別の男を探す」
マルガレーテは唇を閉じた。
「母上」
ヴァンフリートは声を少し落とした。
「本当に、この婚約でいいと思ってるのか」
マルガレーテは娘を見た。
リーゼロッテも母を見た。
二人のあいだには、言葉にすればどちらかを傷つける何かが横たわっていた。
「リーゼロッテが、決めたことです」
「聞いたのは妹の決定じゃない。母上の考えだ」
「わたくしの考えも同じです」
「同じなら、自分の言葉で言え」
「これで、よいのです」
ヴァンフリートは母を見つめた。
「母上が『よい』と言う時は、だいたいよくない」
「あなたは昔から、人の返事を受け入れませんね」
「受け入れられる返事をしたことがないからな」
マルガレーテの口元が、かすかに動いた。
笑いかけたのではない。
泣きそうになったことを、笑いへ変え損ねたように見えた。
ヴァンフリートの外套の内側には、母から届いた短い手紙がある。
来てほしいとは書かれていなかった。
止めてほしいとも、助けてほしいとも書かれていない。
ただ、娘の婚約と、相手の名だけが書かれていた。
それだけで息子が来ると、母は知っていた。
だから、知らせるだけにした。
助けを求める資格が自分にないと思った者は、事実だけを書いて、あとは読む者へ委ねる時がある。
ヴァンフリートはそんな母の横顔をじっと見つめていた。
ただ、あの短い手紙が祝報ではなかったことだけは分かった。
「何が不満なんだ」
コンラートが言った。
「不満を探してるんじゃない。喜んでる人間を探してる」
ヴァンフリートは父を見た。
「父上は、家格の話をした」
コンラートを見た。
「兄上は、問題が見当たらないと言った」
マルガレーテへ目を移した。
「母上は、『これでよい』と言った」
最後に、リーゼロッテを見た。
「お前は、受けると決めたと言う。誰も、望んだとは言わない」
白い花の香りが、暖炉の熱に押されて部屋へ広がっていた。甘い香りだった。それがかえって、誰も手をつけない酒の匂いを際立たせた。
「望むかどうかだけで、婚姻を決められる方ばかりではありません」
リーゼロッテは、今度は目を逸らさなかった。
「兄様なら、ご存じのはずです」
「知ってる。だから、望まなかったことまで望んだ顔で差し出す必要はないと言ってる」
「わたくしは、差し出されてなどおりません」
「リーゼロッテ」
コンラートがたしなめた。
リーゼロッテは長兄へ向き直った。
「兄上。どうか、言わせてください」
コンラートの口が閉じた。
彼女は再びヴァンフリートを見た。
「兄様は、この家を出ることがおできになりました」
言葉は静かだった。
静かなものほど、長く胸の内で形を整えられている。
「嫌だと思うことから離れ、ご自分の机を置き、ご自分の正しいと思うように生きてこられました。それが悪いと申し上げているのではありません」
ヴァンフリートは何も言わなかった。
「けれど、ここに残った者の選び方まで、初めから偽物であるかのように仰らないでください。わたくしを、兄様のお帰りを待っていた可哀想な妹になさらないでください」
暖炉の薪が崩れた。
小さな音だったが、誰もその直後には口を開けなかった。
アエミリアはヴァンフリートを見なかった。それは彼を庇ったのではない。今、答えるべき者を他へ移さないためだった。




