第10話
翌朝、雨の名残は屋根の北側にだけあった。
法院通りの石は白く乾き、街路樹の若葉を通った光が、その上で細かく揺れていた。風はまだ春の涼しさを持っていたが、日向に立つと、夏がもう遠くないことが分かった。
ベアトリクスは一人で来た。
席へ着くなり手袋を外し、鞄から法院の書式を取り出した。昨日渡された、婚約を続けるか否かを申し出るための紙である。まだ何も書かれていなかった。
「決めました」
ヴァンフリートは新聞から目を上げなかった。
「顔を見れば分かる。男を許す人間は、もう少し自分に腹を立ててる」
「婚約を解消します」
「そうか」
彼は新聞を畳み、紙を彼女の前へ戻した。
「なら書け」
ベアトリクスはペンを取ったが、すぐには紙へ下ろさなかった。
「理由を、お尋ねにならないのですか」
「俺が納得しないと、お前は婚約を解消できないのか」
「そういう意味ではありません」
「なら要らん。続けるのも解消するのも、お前の人生だ。代言人の感想を許可証にするな。俺の感想はたいてい、役に立たないうえに感じが悪い」
アエミリアは、最後のところだけは反論しようがないと思った。
ベアトリクスは紙を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「わたくしは、オスカーを取り返したかったのではなかったのだと思います」
「昨日まで気づかなかったなら、発見としては遅いな」
「消されたままでいることが、許せなかったのです」
若葉の影が机の縁を越え、白い紙の上へ差した。揺れる影の中で、彼女の指だけが動かなかった。
「わたくしは選ばれなかったのではありません。一度は選ばれ、そのあと、都合が悪くなったから、初めからいなかったことにされた。あの方のもとへ戻りたかったのではなく、それを認めさせたかったのです」
ヴァンフリートは頬杖をついた。
「ようやく主語が戻ったな」
「主語、ですか」
「男が選んだ。男が捨てた。女が奪った。お前の話には、お前以外の人間ばかり出てきた。今は違う。お前が解消する」
ベアトリクスは彼を見た。
「それは、褒めていらっしゃるのですか」
「まさか。朝からそんな体に悪いことをするように見えるか」
彼女の口もとに、ごく淡いものが浮かんだ。それは笑みになる前に消えたが、消されてはいなかった。
ベアトリクスは、婚約を解消する旨を書き、その理由として、相手方による婚約の否認と未解消のままなされた後発届を記した。最後に自分の名を書くと、ペン先から小さな墨の玉が落ちた。
アエミリアが吸取紙を置いた時、通りへ一台の馬車が止まった。
先に降りたのはシグルーンで、そのあとからセシーリエが姿を見せた。昨日までの外出着よりも簡素な薄青の服を着ており、帽子の影にある顔は、よく眠った人のものではなかった。
シグルーンはベアトリクスの姿を見ても足を止めず、二人分の書類を机へ置いた。
「セシーリエ様の意思が決まりましたので、お伝えに参りました」
「お前の意思じゃないだろ」
ヴァンフリートはセシーリエを見た。
「代言人の口は便利だが、人生まで喋らせると、あとで誰のものか分からなくなる。お前が言え」
セシーリエは椅子へ座らなかった。
「オスカー様との婚約を解消します。後の婚約届についても、継続を求めません」
「理由は」
「もう一度、あの方の言葉を信じられるとは思いません」
「簡潔で結構。信頼の死亡診断に長文は要らん」
シグルーンが一枚の紙を開いた。
「後発の婚約が先行婚約のため効力を妨げられたとしても、セシーリエ様の意思による解消であることは記録へ残します。事情を知らずに届出をした者が、何も選ばぬまま排除された形にはいたしません」
ヴァンフリートは、その文面へ目を走らせた。
「相変わらず隙のない紙だな。枕にしたら悪夢を見そうだ」
「お貸ししましょうか」
「遠慮する。俺は起きてる時だけで十分だ。こういう紙はお前みたいな代言人に会ってる」
セシーリエはそこで初めて、ベアトリクスを見た。
二人の間には、昨日の審問台ほどの距離はなかった。手を伸ばせば互いの書類へ届くほど近いのに、どちらも手を伸ばさなかった。
「あなたも、解消なさるのですね」
セシーリエが尋ねた。
「ええ」
「そうですか」
それだけで会話は途切れた。
相手が同じ男を選ばなかったと知っても、二人の傷が一つになるわけではなかった。傷はそれぞれの場所にあり、それぞれの形で痛んでいた。ただもう、その痛みを相手の名で呼ぶ必要だけがなくなりかけていた。
ほどなくして、オスカーが来た。
馬車を待たせるよう従者へ命じてから、古びた机と四人の女を見て、彼は不快そうに眉を寄せた。
「こんな場所で話すのですか」
「二人へ別々の話をする時は部屋が二つ必要だっただろうが、今日は真実が一つで済む。机も一つで足りる」
ヴァンフリートは空いている椅子を靴先で示した。
「座れ」
オスカーは椅子へ触れなかった。
「ベアトリクス。法院は私たちの婚約を認めた。なら、もとの話へ戻ることができるはずだ」
ベアトリクスの前には、今しがた署名した紙があった。
「戻るところはございません」
「感情的になっているだけだ。私は確かに手順を誤った。しかし、両家にとって最も穏当なのは、私たちが――」
「法院が認めたのは、わたくしがあなたのもとへ戻るべきだということではありません」
彼女の声は高くならなかった。
「わたくしとの婚約が存在したということです。それをあなたが、存在しなかったことにしようとしたことも」
「私は、君を消そうとしたわけではない」
「もちろんだ」
ヴァンフリートが口を挟んだ。
「お前は自分を守ろうとしただけだ。そのために誰かが消えても、見ないようにしてた。悪人になる決心さえ要らない。便利な善良さだな」
「あなたには話していません」
「俺もお前の言い訳には興味がない。互いに幸運だ」
オスカーはヴァンフリートを睨んだが、やがてベアトリクスへ視線を戻した。
「本当に、それが君の決断なのか」
「はい。わたくしは、あなたとの婚約を解消します」
彼女は署名した紙を持ち上げた。
「今度は、届出もいたします」
オスカーの顔に、初めて何も言えない間が生まれた。
その間を避けるように、彼はセシーリエを見た。
「では、セシーリエ。先の婚約が正式に解消されたあとで、改めて私たちの届を出せばいい。今度は何の問題も――」
「いいえ」
セシーリエの返事は、彼が最後まで言い終えるより早かった。
「わたくしも、あなたを選びません」
「だが、君は事情を知ったうえで私との婚約を――」
「知っていたのは、先の婚約が一度は存在したことです。あなたは、それが終わったとおっしゃいました。終わっていないと知っていたのは、あなただけです」
「私は手紙を書いた」
「書いた日と、相手へ届くようにした日は違います」
その言葉には怒りよりも、疲れがあった。
「あなたはその違いを、わたくしに言いませんでした。もう一度信じろとおっしゃるなら、次は、何を言わなかったのかまで信じなければならなくなります」
オスカーは二人を交互に見た。
昨日まで、彼は二人の女の間に立ち、どちらを残すかは自分が決めるものと思っていたのだろう。今、その立つ場所だけが残り、二人はもう彼の方を向いていなかった。
「おめでとう」
ヴァンフリートが言った。
「昨日まで二人から選ぶ男だった。今日は二人に選ばれない男だ。少なくとも今度は、婚約者の数と届出の数が合ってる」
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