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第7話

 その日は朝から、夏が一日だけ先に来ていた。


 法院の高い窓は開け放たれ、白い壁へ差した日が、床の半ばまで伸びていた。外では菩提樹の葉が風に鳴っているのに、審理室の空気は重く、インクの匂いまで温まっていた。


 ベアトリクスはヴァンフリートの隣に座り、セシーリエはシグルーンの隣にいた。


 二人の間にはオスカーがいた。


 彼は代言人を伴わなかった。自分の説明だけで足りると思っているらしく、審理が始まる前から、机の上へ手袋をきちんと揃えて置いていた。


 裁定官が当事者の名を確かめると、ヴァンフリートは立った。


「俺たちは、セシーリエが婚約届へ署名したことを争わない。オスカーがお前へ婚約を申し込んだことも、届けが受け付けられたことも事実だ」


 呼びかけられたセシーリエが、僅かに顔を上げた。


「争うのは、その時にベアトリクスとの婚約が終わっていたかだ。ついでに、終わってもいない婚約をどう説明して、二人目と法院を納得させたかもな」


 シグルーンが続いて立った。


「ベアトリクス様とオスカー様の間に、先行する婚約が成立していた点は争いません。一方で、私の依頼人は、その婚約がすでに解消されたとの説明を受けています。未解消であることを知りながら婚約者を奪ったという主張は、証明されておりません」


 裁定官は両者の言葉を書記官へ確認させた。


 先の婚約があったことは、もう争点ではない。


 残ったのは、それがいつ終わったかだった。


「オスカー・フォン・ヴァイスフェルト」


 裁定官に呼ばれ、オスカーが立った。


「ベアトリクス・フォン・ブラウリートとの婚約を解消したのは、いつですか」


「先月八日です」


 答えに迷いはなかった。


「その日、破談の手紙を書き、届けるよう命じました。セシーリエとの婚約を届けたのは十一日ですから、先の婚約はすでに終わっております」


 裁定官はヴァンフリートを見た。


「質問を」


 ヴァンフリートは、手元の紙へ触れなかった。


「八日に終わったんだな」


「はい」


「手紙を書いたから?」


「書き、届けるよう命じたからです」


「ベアトリクスが読んだからじゃない」


 オスカーの目が僅かに細くなった。


「破談の意思を明確に示した時点で、婚約を続ける意思はありませんでした」


「お前の意思を聞いてるんじゃない。婚約が終わった日を聞いてる」


「同じことです」


「また同じか。お前の同じは便利だな。違うものを片っ端から放り込める」


 審理室の奥で、小さく衣擦れの音がした。


 ヴァンフリートは裁定官へ向いた。


「今の証言を確認してくれ。こいつは八日に手紙を書き、届けるよう命じた。それによって婚約は八日に終わったと主張してる」


 裁定官がオスカーへ尋ねた。


「訂正しますか」


「いたしません」


「十一日に後発の婚約届を出した時、未解消の先行婚約はなかったと考えていたのですね」


「その通りです」


 書記官の筆が止まった。


 ヴァンフリートは、そこで初めて一枚の紙を出した。


「破談の手紙だ。日付は八日。署名も本物。文章もオスカーが書いたもので間違いない」


「認めます」


 オスカーの顔に、僅かな余裕が戻った。


「私は何も偽造しておりません」


「誰も偽造なんて言ってない。お前は本物の紙で嘘をついた。せっかく上等な手口なんだ、安い罪まで欲しがるな」


 ヴァンフリートは手紙を裁定官へ渡した。


「ベアトリクス。この手紙を受け取ったのは?」


「十四日です」


「十一日の婚約届より後だな」


「はい」


 オスカーが口を開いた。


「配達が遅れたことまで、私の責任だと仰るのですか。私は八日に発送を命じています」


「命じた。便利な言葉だな。自分の口から出たところで、責任が使用人へ移る」


 ヴァンフリートはアエミリアへ手を出した。


 彼女は封筒と、届けた日の記録だけを渡した。


 ヴァンフリートは先に封筒を置いた。


「こっちは、ベアトリクスが残していた封筒だ。次が、配達を扱った者の記録」


 裁定官が記録へ目を通した。


「ヴァイスフェルト家から手紙を預かったのは、十三日となっています」


 オスカーは動かなかった。


「何かの誤りです」


「便利だな」


 ヴァンフリートが言った。


「お前に都合の悪い日付だけ、揃って字が読めなくなるらしい」


「使用人には八日に渡しました。そこから先の遅れを、私は知りません」


「じゃあ、お前の屋敷に五日間あったわけだ」


「私の手を離れております」


「お前の屋敷を出てない」


「発送を命じた事実は変わりません」


「婚約者に届かなかった事実も変わらん」


 ヴァンフリートは手紙を持ち上げた。


「手紙は、お前が書いた瞬間に相手の家へ飛んでいかない。そこまで優秀なら、郵便屋をお前の官職へ推薦してやれ。少なくとも日付の扱いは、お前より信用できる」


「私は意思を示しました」


「自分の書斎でな」


 ヴァンフリートの声から、笑いが消えた。


「破談は日記じゃない。相手へ知らせるものだ。お前が一人で婚約を始められないように、一人で紙へ書いただけじゃ相手の立場は変わらん。ベアトリクスが知る前に、お前は別の女と婚約を届けた」


 オスカーは裁定官へ向いた。


「私どもの関係は、すでに実質的に終わっておりました。ベアトリクスも、両家の条件が合わなくなったことは承知していたはずです」


「承知しておりません」


 ベアトリクスが答えた。


「お前の予想を、相手の同意にするな」


 ヴァンフリートは言った。


「察していたはず、知っていたはず、終わっていたはず。お前は肝心なところへ全部『はず』を置く。証拠がなくても文章だけは完成するからな」


 裁定官がオスカーへ尋ねた。


「婚約を解消するとの明確な通知を、八日以前に行いましたか」


「いいえ。しかし――」


「では、ベアトリクスが破談を知ったのは十四日が初めてですね」


「公示を見ていれば、十二日には知ったはずです」


「別の女との婚約を公示して、前の女へ破談を知らせたつもりか」


 ヴァンフリートが笑った。


「次からは葬儀の案内も婚礼欄へ出せ。本人だけ知らないうちに、人生がよく進む」


「言葉を慎んでください」


「お前は二人分の婚約を慎まなかった。釣り合いは取れてる」


 裁定官が机を軽く叩いた。


「代言人。質問を先へ」


「じゃあ二人目だ」


 ヴァンフリートはセシーリエを見た。


「お前がオスカーから、先の婚約は終わったと聞いたのは?」


「九日です」


「手紙を見せられた」


「八日の日付がある控えを見ました。すでにベアトリクス様へ出したと聞いております」


 ヴァンフリートはオスカーへ顔を戻した。


「九日。お前はセシーリエに、破談の手紙はもう出したと話した」


「その認識でした」


「認識じゃない。話したか」


「話しました」


「その時、手紙はまだお前の屋敷にあった」


「私は知りませんでした」


「知らないものを、もう届くようにしたと説明した」


「発送は命じていました」


「使用人が忘れたから、自分の嘘も無罪になる?」


「嘘ではありません」


「じゃあ何だ。願望か?」


 オスカーは答えなかった。


「九日にお前がセシーリエへした説明は、先の婚約は解消済み、手紙も発送済み。それで間違いないな」


「はい」


「訂正は?」


「ありません」


 書記官が再び筆を止めた。


 その時、シグルーンが立った。


「私からも質問を」


 裁定官が許可した。


「オスカー様。セシーリエ様へ婚約を申し込まれた際、ベアトリクス様との婚約がまだ効力を残している可能性を説明しましたか」


「その必要はないと考えました」


「可能性はあると思っていたのですか」


「ありません」


「では、確実に解消済みだと説明した」


「そうです」


「破談の手紙がベアトリクス様へ届いたことを、確認しましたか」


「発送を命じましたので――」


「確認したかを尋ねています」


 シグルーンの声は静かだった。


「しておりません」


「後発の婚約届を出す十一日までに、一度も?」


「はい」


「セシーリエ様が、未解消の婚約へ故意に加わったとする証拠をお持ちですか」


 オスカーは眉を寄せた。


「そのようなことは申し上げておりません」


「先ほどから、彼女も事情を承知していたような言い方をなさっています」


「以前の縁談を知っていたことは事実です」


「以前に婚約があったと知ることと、それが解消されていないと知ることは違います」


 シグルーンは一歩も譲らなかった。


「あなたは依頼人へ、解消済みだと説明した。未解消である可能性を伝えなかった。法院へも、先行婚約はないと申告した。その説明を信じて署名した者へ、今になって責任を分けようとなさるのですか」


「私は責任を分けてなど――」


「では、明確にお答えください」


 シグルーンはオスカーを見据えた。


「セシーリエ様は、ベアトリクス様との婚約がまだ続いていると、知っていましたか」


「……知ってはいなかったでしょう」


「それで結構です」


 シグルーンは席へ戻った。


 アエミリアは、その横顔を見ていた。


 シグルーンはヴァンフリートへ味方したのではない。先の婚約を認めた時と同じように、依頼人を守るため、守る必要のない説明を捨てただけだった。


 オスカーの顔から、初めて余裕が消えていた。


「さて」


 ヴァンフリートが立ち直した。


「最後は法院だ」


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