第5話
「わたくしは、あなたから何も奪っておりません」
セシーリエは、席へ着くより先にそう言った。
朝の法院通りには、夜の雨がまだ軒下に残っていたが、空はもう夏に近い青さを見せていた。日除けの布を透かした光が机の上で揺れ、風が吹くたび、セシーリエの淡い緑の袖にも木の葉の影が渡った。
ベアトリクスは立ち上がらなかった。
「他人の婚約者と婚約を届けておきながら?」
「その婚約は終わったと聞いておりました」
「聞けば、何をしてもよろしいのですね」
「お前たちは座れ」
ヴァンフリートが言った。
「男に別々の話を聞かされて、会って一言目から互いの知性を疑う。オスカーにとっては理想的な展開だ。本人がいなくても喧嘩が育つ」
セシーリエは唇を結び、シグルーンの隣へ座った。
ベアトリクスとの間には、椅子一脚を置けるほどの隙間があった。誰もその椅子を持ってこなかった。
「まず、セシーリエに聞く」
ヴァンフリートは言った。
「お前はベアトリクスとオスカーが婚約していたことを、いつ知った」
「以前から、縁談があることは存じていました」
ベアトリクスが鼻で息を吐いた。
「では、やはり知っていたのではありませんか」
「最後まで聞け。途中で判決を出したいなら、法院の屋根へ上って鐘でも鳴らしてろ」
ヴァンフリートはセシーリエへ目を戻した。
「婚約だと知ってたのか、まだ縁談の途中だと思ってたのか」
「最初は、婚約なさるのだと思っておりました。冬の夜会で、お二人が婚約者として紹介されたことも覚えています」
「それが終わったと、誰から聞いた」
「オスカー様からです」
「いつだ」
「わたくしへ正式に婚約を申し込まれる前です」
「日を言え」
「先月の九日でした」
ベアトリクスの指が、膝の上でわずかに動いた。
オスカーが破談の手紙へ記したのは八日である。その翌日には、セシーリエへ先の婚約は終わったと話していた。
「どう説明された」
「両家の条件が折り合わず、ベアトリクス様との婚約は解消したと。すでにご本人へも手紙を出したので、これ以上の問題はないと仰いました」
「手紙を見たか」
「はい」
アエミリアは顔を上げた。
「封をした手紙をですか」
「いいえ。オスカー様の書斎で、同じ文面の控えを見せられました。日付は八日でした」
「届けた日の記録はご覧になりましたか」
「見ておりません」
「出したところは?」
「見ておりません」
「では、見たのは八日と書かれた控えだけですね」
「そうです」
セシーリエの返事は、少し遅くなった。
シグルーンは助け舟を出さなかった。依頼人の横顔を一度見ただけで、続きを本人へ任せている。
ヴァンフリートが聞いた。
「なぜ、それで信じた」
「信じていた方から、婚約を申し込まれたからです」
「実に人間らしい答えだ。役には立たんが、嘘よりはましだな」
セシーリエは彼を見た。
「わたくしが、確認を怠ったと仰りたいのですか」
「怠っただろうな。だが、婚約を申し込まれるたび、前の女へ聞き込みに行けという決まりはない。お前の趣味が悪かったことと、故意に婚約者を奪ったことは別だ」
「先生」
アエミリアが咎めるように呼んだ。
「事実だろ。少なくとも男を見る目は、二人揃って不合格だ」
今度はベアトリクスまで彼を睨んだ。
「俺を見るな。共通点が見つかったんだ。喜べ」
誰も喜ばなかった。
セシーリエは膝の上で両手を重ねた。宝石のない指が、互いを押さえるように固く組まれていた。
「十一日に法院へ婚約を届けた際も、オスカー様は未解消の婚約はないと申告しました。法院の書記官の前で、はっきりと」
「それを聞いて、お前も署名した」
「はい」
「ベアトリクスへ確かめようとは思わなかったのか」
「思いませんでした」
その答えに、ベアトリクスの顔が冷えた。
「わたくしが何を思おうと、どうでもよかったのでしょう」
「終わった婚約の相手だと聞いておりました」
「終わったと、あなたが決めたのです」
「決めたのはオスカー様です」
「婚約は一人で終わらせるものではありません」
ベアトリクスの声は静かだった。怒鳴らないために、かえって言葉の端が鋭くなっていた。
「あなたは冬の夜会で、わたくしが婚約者として紹介されたことを覚えていた。それでも、春になって彼が終わったと言えば、それだけで信じた」
「あなたも、届出は後でよいという言葉を信じたのでしょう」
セシーリエが返した。
言った直後、シグルーンが僅かに目を伏せた。
ベアトリクスの頬から色が引いた。
「なるほど」
ヴァンフリートが言った。
「騙された女同士で、どちらが上手に騙されたかを競うのか。優勝しても男の趣味が悪かった事実しか残らんぞ」
セシーリエは顔を逸らした。
「それは、言い過ぎました」
謝罪はベアトリクスへ向けられていた。
ベアトリクスはすぐには答えなかった。
「わたくしは、あなたを奪った女だと申しました」
「伺っています」
「今も、そうではないと信じ切ることはできません」
「では、何を聞けば信じるのですか」
「あなたが何も知らなかったという証拠です」
「ないことの証拠を、どう出せと仰るのです」
二人の声はまた硬くなった。
アエミリアは机の上の紙を見た。
セシーリエの署名がある婚約届は、彼女が後から婚約したことを証明している。そこに疑いはない。しかし、その署名は、彼女がベアトリクスとの婚約が残っていたと知っていたことまでは語らない。
「ベアトリクス様」
アエミリアは言った。
「セシーリエ様は、先に婚約があったことを知っていました。けれど、それがまだ続いていると知っていたかは別です」
「あなたまで、その方を庇うのですか」
「庇っているのではありません。分けています」
アエミリアは自分の声が揺れないよう、ゆっくり続けた。
「先の婚約を知っていたことと、解消されていないと知っていたことは同じではありません。後から婚約を届けたことと、故意に奪ったことも同じではありません」
ベアトリクスは黙って彼女を見た。
「では、誰も責任を負わないのですか」
「おい」
ヴァンフリートが口を挟んだ。
「男が一人、きれいに消えてるぞ。お前の怒りは女しか見えない病気か?」
ベアトリクスの瞳が揺れた。
ヴァンフリートは、セシーリエへ向き直った。
「お前も同じだ。ベアトリクスを、終わった婚約に執着する女だと思ってたな」
セシーリエは否定しなかった。
「はい」
「なぜだ」
「オスカー様から、破談を受け入れず、両家へ訴え続けていると聞きました」
「わたくしが異議を述べたのは、婚約届を知った後です」
ベアトリクスが言った。
「それ以前には、破談の手紙すら受け取っておりません」
セシーリエは彼女を見た。
初めて、敵を見る目ではなかった。ただし、同情でもない。自分へ渡された説明の形が、少しずつ崩れていくのを見ている目だった。
「手紙が届いたのは、本当に十四日なのですか」
「そう申しております」
「婚約届の三日後……」
「私も封筒を確認しました」
シグルーンが言った。
「配達された日については、争いません」
セシーリエの手が解けた。
「では、九日に見せられた手紙は、まだ――」
「書かれていただけだ」
ヴァンフリートが言った。
「お前に見せるための控えはあった。ベアトリクスへ届いた手紙はなかった。オスカーは、その隙間でお前に婚約を申し込み、法院へは先の婚約がないと申告した」
「どうして、そのようなことを」
「愛に目覚めたんだろう。たまたまお前の家が、官職の推薦まで持ってただけだ」
セシーリエの顔に、初めて露骨な怒りが浮かんだ。
「父の推薦を疑っているのですか」
「推薦そのものは疑ってない。日付を見てる」
アエミリアは鞄から一枚の控えを出した。
オスカーの官職推薦について照会した返事である。彼の名には、当初ブラウリート家の後押しが添えられていた。ところが先月の六日、アウエンブルク家から別の推薦が届くと、前の手続は保留にされている。
破談の手紙が書かれた二日前だった。
「オスカー様から、父へお願いしたのですか」
アエミリアが尋ねた。
「そう聞いております。婚約の前に、ご自分の仕事を認めてもらいたいのだと」
「お前の父親が推薦を承知したのは?」
「六日です」
セシーリエは、書面の日付を見た。
六日に推薦を得て、八日に破談の手紙を書き、九日にセシーリエへそれを見せ、十一日に婚約を届けた。
けれど、手紙がベアトリクスへ届いたのは十四日である。
「これでオスカーの嘘が全部証明できるわけじゃない」
ヴァンフリートが言った。
「だが、先の婚約を届けずに置けば、二つの家を見比べられる。お前の家の方が高いところへ手を伸ばせると分かった途端、急に愛と決断力が湧いたらしい」
「わたくしの家が、婚約の条件だったと?」
「本人に聞け。法院でな」
シグルーンは推薦の控えを読み終えると、セシーリエへ返した。
「セシーリエ様。この件について、オスカー様から別の説明を受けたことはありますか」
セシーリエは少し考えた。
「ありません。父の推薦は、婚約とは関係がないと仰っていました」
シグルーンはそれ以上、答えを誘わなかった。
「分かりました」
「アイスベルク様」
セシーリエは、控えを持ったまま尋ねた。
「わたくしの婚約は、どうなるのでしょう」
「先行婚約が解消される前に届けられた可能性があります。今のまま有効だと断言はできません」
「では、わたくしは婚約者ではないと?」
「それも、まだ私が決めることではありません」
「オスカー様を信じるべきでしょうか」
「それはもっと、私が決めることではありません」
シグルーンの声は冷たくなかった。
ただ、依頼人が欲しがる答えを、代わりに選ばなかった。
セシーリエは書面を閉じた。しばらくして、ベアトリクスへ顔を向けた。
「わたくしは、あなたとの婚約が終わったと信じていました」
「信じただけでしょう」
「はい。信じただけです」
セシーリエは目を逸らさなかった。
「ですから、確認しなかったことまで正しかったとは申しません。けれど、知りながら奪ったとは認めません」
ベアトリクスは答えなかった。
「あなたが、存在しない婚約へ執着していると思っていたことも、今は違ったと分かります」
「謝っているのですか」
「事実を訂正しています」
ベアトリクスの口元が、僅かに歪んだ。
「シグルーン様によく似ていらっしゃること」
「それは褒め言葉として受け取ります」
二人は笑わなかった。
しかし、先ほどまで互いへ向けていた怒りの中央に、ようやく別の男の姿が戻っていた。




