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第4話

 オスカー・フォン・ヴァイスフェルトは、シグルーンと共に歩いてきた。


 背の高い、身なりのよい男だった。初夏に近い陽気に合わせた薄手の上衣は皺一つなく、その顔には、人を待たせた者の気まずさより、待たれることに慣れた者の静けさがあった。


 シグルーンは前と同じ革の書類入れを持っていた。


 今日もセシーリエは来ていない。


 ベアトリクスはすでに机の前へ座っていた。オスカーが近づいても立ち上がらず、視線だけを向けた。


「お久しぶりです、ベアトリクス」


「破談の手紙よりは、お早いお着きですこと」


 オスカーの微笑が、少し薄くなった。


「座れ」


 ヴァンフリートが言った。


「私は、路上で言い争うために来たのではありません」


「安心しろ。お前が言い争う場所を選べる時期は、婚約者を二人作ったところで終わってる」


「二人ではありません」


 オスカーは腰を下ろさなかった。


「私が婚約したのはセシーリエだけです。ベアトリクスとの間に、法院へ届けられた婚約はありません」


 ベアトリクスの顔は動かなかった。


 ただ、膝に置かれた手袋の指が、ゆっくりと折れた。


「婚約ではなかった、と?」


「両家の条件を整えるための話合いでした。将来、条件が整えば婚約を届ける。その前提で書面を交わしたにすぎません」


「便利だな」


 ヴァンフリートは婚約証書を持ち上げた。


「お前の署名がある。ベアトリクスの署名もある。両家の当主と立会人まで呼んで、互いに婚約すると確かめた。それでも話合いか」


「届出がない以上、正式な婚約ではありません」


「じゃあ届けを出す前の婚約者は何だ。練習用か?」


「ローエンハイム殿」


 オスカーは、ようやく椅子へ座った。


「社交上の約束と、法院に認められた婚約は違います」


「そうか。お前はベアトリクスの前では婚約、今は社交上の約束、セシーリエの前では解消済みの先行婚約と呼んだ。相手が変わるたび、言葉まで着替えるらしい」


 シグルーンがオスカーを見た。


「確認させてください。あなたはセシーリエ様へ、ベアトリクス様との婚約はすでに解消した、と説明されましたね」


「ええ」


「存在しなかった、とは説明していない」


「実質的には同じです。正式な届出前の話でしたから」


「同じではありません」


 前の面会でベアトリクスへ向けたのと同じ言葉を、シグルーンは今度はオスカーへ返した。


「存在しなかった関係と、解消した関係は違います。私の依頼人は、あなたから後者を聞いています」


 オスカーはわずかに眉を寄せた。


「アイスベルク殿は、どちらの側なのですか」


「セシーリエ様の側です。ですから、あなたの説明と依頼人の認識を混ぜておりません」


 ヴァンフリートは口元だけで笑った。


「残念だったな。お前の都合より、相手の代言人の記憶の方が丈夫らしい」


「私が何かを偽ったように仰いますが、ベアトリクスには後発の婚約届より前の日付で、破談の手紙を出しています」


「書いた、じゃなくて出した?」


 オスカーの目が、ほんの一瞬だけ止まった。


「同じことでしょう」


「今日だけで三度目だな。お前にとって同じことは、だいたい別のことらしい」


 ヴァンフリートはそれ以上、手紙を追わなかった。


 便箋の日付が八日であることを、オスカーは頼りにしている。十一日にセシーリエとの婚約を届け、その前にベアトリクスとの関係を終わらせたつもりでいる。


 少なくとも、今はそう言っている。


「話を戻すぞ。お前は、ベアトリクスとの婚約は成立していなかったと言う」


「はい」


「なら、これは何だ」


 ヴァンフリートが婚約証書を置いた。


 次いで、アエミリアが立会人の確認をその傍らへ添えた。礼拝堂の帳面から写した一節は、一番下へ置いた。


 オスカーは証書だけを見た。


「準備が進んでいたことは否定しません」


「両家が婚約成立の祝いをした」


「将来を見越してのことです」


「お前はベアトリクスを婚約者として親族へ知らせた」


「家同士の話がまとまると考えていましたから」


「婚礼の日まで押さえた」


「それも準備です」


「便利な準備だな。婚約に必要なことを全部やっても、最後の紙を届けなきゃ、お前の中では何も起きてない」


 オスカーは答えなかった。


「届出は、起きた婚約を法院へ知らせるものだ。届けた日から突然、見知らぬ二人が婚約者になるわけじゃない。本人が同意し、両家が認め、立会人の前で証書を交わした。お前が後から名前を変えても、やったことまで変わらん」


「しかし、私は解消の意思を伝えました」


「さっきまで婚約じゃなかったんだろ」


 通りを渡っていた馬車の音が、机の前を過ぎていった。


 オスカーは口を閉じた。日除けの布から漏れた光が、頬の半分だけを明るくしていた。


 ベアトリクスが彼を見ていた。


「あなたは、わたくしの父へ許しを求めました」


「それは両家の――」


「母へ、婚礼後の住まいについて相談なさいました。わたくしには、ヴァイスフェルト家の女主人として覚えてほしいことがあると仰いました」


「状況が変わったのです」


「それなら、状況が変わるまでは婚約者だったのでしょう」


 オスカーは答えなかった。


 ベアトリクスの声には、怒りよりも冷たいものがあった。自分が愛されたかを尋ねているのではない。あの日、自分が何者であったかを尋ねている。


 シグルーンは、婚約証書をもう一度手に取った。


 彼女自身も、前の面会から署名と封蝋を確かめていた。立会人のうち一人には、別に話を聞いているらしい。手元の控えへ目を落とした後、証書を静かに戻した。


「先の婚約が成立していた点は、争いません」


 アエミリアは顔を上げた。


 ベアトリクスも、すぐには言葉を返さなかった。


 最初に声を出したのはオスカーだった。


「アイスベルク殿。私の説明を聞いていたのですか」


「聞いたうえで申し上げています。法院への届出前でも、本人同士の明確な意思があり、両家が確認し、立会人の前で証書を交わしています。その後の扱いも婚約として一貫しています。存在そのものを否定するのは無理があります」


「あなたの依頼人の婚約が不利になるのですよ」


「不利な事実を消すために依頼を受けたのではありません」


 シグルーンの声は変わらなかった。


「私が守るのは、セシーリエ様が先行婚約は解消済みだと説明され、それを信じて婚約したという事実です。ベアトリクス様の婚約が存在したことと、私の依頼人がそれを知って奪ったことは、同じではありません」


「では、わたくしが先の婚約者だったことはお認めになるのですね」


 ベアトリクスが尋ねた。


「はい」


「それでも、セシーリエ様が婚約者だと?」


「後発の婚約届が出されたことは消えません。ただし、その時点で先の婚約が解消されていたかは、別に確かめる必要があります」


「奪ったのでしょう」


「それは認めません」


 シグルーンはベアトリクスから目を逸らさなかった。


「あなたの婚約が存在したことは認めます。私の依頼人が故意に奪ったという、証明されていない評価は認めません」


 二人の女の間に、初夏の光が落ちていた。


 ベアトリクスの顔には、婚約を取り戻した安堵と、その婚約だけでは相手を罪人にできない苛立ちが、どちらも隠されずにあった。


 ヴァンフリートはオスカーへ向き直った。


「お前の昔の婚約は、無事に婚約へ戻った。めでたいな。今の婚約がどうなるかは、ちっともめでたくないが」


「私は、先に解消の手紙を書いています」


「知ってる。お前は書いた。次は、それで何が終わったのかを調べる」


 オスカーは立ち上がった。


「これ以上は法院でお話しします」


「好きにしろ。今より立派な椅子に座れば、説明まで立派になると思ってるならな」


 彼は返事をせず、通りへ出ていった。


 その背が人波へ消えるまで、ベアトリクスは一度も追わなかった。


 シグルーンは書類を収めた。


「次は、セシーリエ様ご本人にも同席していただきます。何を聞かれるか、先にお知らせください」


「先に答えを作らせる気はない」


「質問の範囲を確認するだけです」


「先の婚約をいつ、誰から、どう聞いたか。それで十分だ」


 シグルーンは頷いた。


「分かりました」


 彼女が去った後も、アエミリアは通りの先を見ていた。


「驚いたか」


 ヴァンフリートが尋ねた。


「はい。シグルーン様は、ご自分の依頼人に不利になることを認めました」


「事実を一つ認めたくらいで、依頼人を捨てたことにはならん。嘘にしがみついて、守るべきものまで道連れにする方がよほど無責任だ」


「相手方なのに」


「相手方と嘘つきは同じ意味じゃない。そこを混ぜると、仕事が雑になる」


 机の上には、先の婚約証書が残っていた。


 朝まで、その紙は自分が婚約であることを証明しなければならなかった。今はもう、その点を争う者はオスカーしかいない。


 しかし隣には、セシーリエとの婚約届がある。


 一つの婚約が存在したからといって、もう一人の女の悪意まで生まれはしなかった。


「先生」


「何だ」


「次に確かめるのは、セシーリエ様が知っていたか、ですね」


「そうだ」


 ヴァンフリートは二枚の紙を重ねず、少し離して置いた。


「今度は、奪った女と呼ばれた方の話を聞く」

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