第2話
その日のうちに、アエミリアは二通の知らせを書いた。
一通はオスカーへ、先の婚約に関わる書類を残し、説明を求めるものだった。もう一通はセシーリエへ、ベアトリクスが正式に代言人を立てたことを知らせた。
オスカーから返事は来なかった。
代わりに、セシーリエの側から封書が届いた。
白い紙には短く用件だけが記され、末尾にシグルーン・フォン・アイスベルクという名があった。セシーリエの代言を引き受けたので、以後の連絡は自分へ寄越すようにとある。
面会は二日後に決まった。
午後になると、雨雲は王都の屋根を離れ、法院通りには弱い日が差した。濡れた石の上で、馬車の轍だけが黒く残っていた。
シグルーンは一人で来た。
黒に近い青の上衣を着て、薄い革の書類入れを片手に持っていた。法院前の古びた机を見ても眉をひそめず、アエミリアが示した椅子へ静かに腰を下ろした。
「セシーリエ・フォン・アウエンブルク様の代言を務めます、シグルーン・フォン・アイスベルクです」
「見れば分かる。依頼人より先に紙を置く人間は、大抵この商売だ」
ヴァンフリートの言葉を、シグルーンは受け流した。
向かいにはベアトリクスも座っていた。二人の女は互いに会釈をしたが、それは礼というより、敵が目の前にいることを確かめる動作に近かった。
「初めに申し上げておきます」
シグルーンは書類入れを開いた。
「私はセシーリエ様の代言人です。オスカー様の説明を守るために来たのではありません」
ヴァンフリートが片方の眉を上げた。
「賢明だ。男の嘘まで抱えると、荷物が増える」
「嘘かどうかも、これから確かめます」
シグルーンは一枚の写しを机へ置いた。
「セシーリエ様は、先の婚約はすでに解消されたとオスカー様から説明を受けています。そのうえで婚約へ同意し、法院への届出を行いました」
それは後発の婚約届だった。
セシーリエとオスカーの名が並び、その下には、未解消の先行婚約はないというオスカーの申告が添えられていた。
「ここに届けられた婚約がある以上、そちらが後から異議を唱えているにすぎません」
ベアトリクスが言った。
「わたくしの婚約を知りながら届けたのでしょう」
「それを示すものはありますか」
シグルーンの声には、嘲りも怒りもなかった。
「オスカー様から聞いていたというのが、その方の説明です」
「正確には、解消済みと聞いていた、です」
「同じことです」
「同じではありません」
シグルーンは穏やかに言った。
「先の婚約が存在しなかったのか、存在したが解消されたのかでは、意味が違います。そして、先の婚約が残っていたかどうかと、セシーリエ様がそれを知っていたかどうかも別です」
「その通りだ」
ヴァンフリートが言った。
ベアトリクスは、味方であるはずの男を鋭く見た。
「俺を見るな。正しい話が相手の口から出たからって、間違いにはならん」
シグルーンの視線が初めてヴァンフリートへ止まった。
「では、そちらは何を主張されるのですか」
「まず、ベアトリクスとオスカーの婚約が成立していたことだ」
ヴァンフリートは先の婚約証書を出した。
シグルーンはすぐには手を伸ばさなかった。
「法院への届出は?」
「ない」
「では、これだけで婚約が成立したと?」
「それを確かめる。本人の意思も、両家の合意も、立会人も紙の上にはある。紙だけならな」
そこでシグルーンは証書を受け取った。署名を見て、封蝋を見て、裏側まで確かめたが、分かったふりはしなかった。
「原本を確認し、立会人にも話を聞く必要があります」
「否定しないのか」
「確認していないものを、存在しないとは申しません」
ヴァンフリートは何も答えなかった。
アエミリアには、その沈黙が珍しく思えた。皮肉を差し込む隙がなかったのか、それとも差し込まなかったのかは分からない。
シグルーンは証書を机へ戻した。
「仮に先の婚約が成立していたとしても、それだけで私の依頼人が故意に奪ったことにはなりません」
「分かってる」
「先生」
ベアトリクスより先に、アエミリアが小さく呼んだ。
ヴァンフリートは後発の婚約届を指で押し、先の婚約証書の隣へ滑らせた。
「こっちはベアトリクスが婚約者だったという紙だ。こっちはセシーリエが婚約者だという紙だ。どちらにも同じ男の署名がある」
アエミリアは二枚を見下ろした。
古い証書の上では、オスカーはベアトリクスを妻にすると約している。新しい届の上では、先の婚約など残っていない顔で、セシーリエの隣に名を置いていた。
どちらの筆跡にも迷いはなかった。
迷っているのは紙ではない。二人の女でもない。
「最初に確かめるのは、どちらが愛されていたかじゃない」
ヴァンフリートが言った。
「最初の婚約が、本当に婚約だったかだ」
二枚の紙の間には、指一本ほどの隙間しかなかった。
その狭いところへ、同じ男から別々の話を聞かされた二人の女が、向かい合って立っていた。




