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第1話

 法院通りの朝は、雨が上がっても、しばらく濡れていた。


 軒から落ちる雫が石畳の薄い水を打ち、そのたび、向かいの法院が小さく揺れた。夏にはまだ早いが、濡れた風にはもう、日の長さが交じっていた。


 アエミリアが机を拭き終えた頃、黒い箱馬車が通りの端に止まった。


 降りてきた女は、裾を濡らさなかった。石の乾いたところを選んだわけではない。泥の方が先に避けたような歩き方をしたのである。


「ベアトリクス・フォン・ブラウリートと申します」


 差し出された名刺を受け取って、アエミリアは女を見た。


 年は自分より幾つか上だろう。淡い灰色の外套には雨粒一つ残っていない。手袋をした指は膝の上で重なり、声にも姿勢にも乱れはなかった。ただ、右の親指だけが、左の手袋の縫い目を強く押していた。


「先生は、まだいらしておりません。お待ちになりますか」


「待ちます」


 女はそれきり口を閉じた。


 アエミリアも尋ねなかった。以前なら、何をされたのか、どれほどお辛かったのかと、空いたところへ自分の考えを詰めていたかもしれない。今は湯を一杯置き、向かいの椅子へ戻った。


 茶から立つ白いものが細くなった頃、ヴァンフリートが現れた。


 外套の肩を濡らしたまま椅子へ腰を下ろし、名刺を一瞥すると、その下へ無造作に置いた。


「それで、何を失くした」


 挨拶を待っていたらしいベアトリクスの眉が、ごくわずかに動いた。


「婚約者を奪われました」


「男の捜索なら衛兵に頼め。俺は逃げた雄鹿を連れ戻す仕事はしてない」


「違います」


 彼女の親指が、手袋の縫い目から離れた。


「消されたのは、わたくしの方です」


 軒から落ちた雫が、今度は少し大きな音を立てた。


 ヴァンフリートは濡れた外套を脱ぐのをやめた。


「続けろ」


「オスカー・フォン・ヴァイスフェルトと、わたくしは婚約しておりました。ところが先月、彼は別の女性との婚約を法院へ届けました。そして今になって、わたくしとの婚約は存在しなかったと申しております」


「お前は存在したつもりだった。男は存在しなかったことにした。恋愛ならよくある話だ。婚約なら紙を見せろ」


 ベアトリクスは鞄から厚い紙を取り出した。折り目は一つしかなく、開かれた紙の下で、古い封蝋が小さな影を作った。


 ヴァンフリートは受け取ると、初めに署名を見た。


「お前のか」


「はい」


「オスカーの署名も本物か」


「本人が、わたくしの前で書きました」


「ほかには」


「両家の当主と、立会人が二人おります。婚約の条件も、その場で確認しました」


 ヴァンフリートは紙をアエミリアへ渡した。


 祝いの日を記す文章は端正であった。両家の名も、本人たちの意思も、誰が立ち会ったかも書かれている。オスカーの署名だけが、他より少し大きかった。


「法院へは届けなかったのですね」


 アエミリアが尋ねた。


「ええ。両家の条件が整うまで待ちたいと、オスカーが申しました。届出は形式にすぎない、両家が認めているのだから何も変わらないと」


「お前は信じた」


 ヴァンフリートが言った。


「婚約者の言葉です」


「答えになってないが、事情にはなってる」


 彼は椅子の背へ身を預けた。


「別の女の名は」


「セシーリエ・フォン・アウエンブルク」


 その名を口にした時だけ、ベアトリクスの声に薄い刃が入った。


「先月の十一日、二人は婚約を届けました。わたくしが知ったのは翌日の公示です」


「その前に、破談の話は」


「一度もありません」


「手紙もない?」


 ベアトリクスは一瞬黙り、鞄へ手を戻した。


「後から届きました」


 今度取り出したのは、一通の手紙であった。封はすでに切られていたが、封筒も捨てずに残されている。ヴァンフリートは中の便箋より先に封筒を取り、裏返した。


「手紙には、いつの日付がある」


「八日です」


「届いたのは」


「十四日でした」


 ヴァンフリートの指が、封筒の隅で止まった。


「届いた日を覚えてるのか」


「忘れると思いますか」


「人間は忘れたくないものから先に忘れる。お前は例外らしい」


 彼は手紙を読んだ。そこには、両家の事情が合わなくなったため婚約を終えること、これ以上の交渉を望まないことが、感情の染み一つない文字で記されていた。


 アエミリアは、便箋の日付と封筒を見比べた。何かが合わない。だが何がどこまで意味を持つのかを、まだ言葉にはしなかった。


「セシーリエは、すべて知っていたはずです」


 ベアトリクスが言った。


「わたくしたちの婚約は両家の者が知っていました。夜会でも、わたくしはオスカーの婚約者として扱われております。知らなかったなどということがあるでしょうか」


「ある」


 ヴァンフリートは即座に答えた。


「王都は自分の借金さえ把握してない人間の集まりだ。他人の婚約だけ全員が正確に知ってるなら、新聞屋は随分と楽だろうな」


「ですが――」


「セシーリエ本人へ知らせた証拠は?」


 ベアトリクスは答えなかった。


「婚約証書を見せたか。本人が同席した場で、オスカーがお前を婚約者と呼んだか。お前との婚約を知っていたと書いた手紙でもあるか」


「そのようなものはありません」


「なら、今あるのは、お前がそう思うという事実だけだ。思う自由はある。証拠のふりをさせる自由はない」


 ベアトリクスの顔から、温度が消えた。


「あなたは、わたくしの代言人になるのではないのですか」


「なるかどうかを今決めてる。お前の怒りに相槌を打つ仕事なら鏡を買え。俺より安いし、反論もしない」


 アエミリアは茶器へ目を落とした。笑うところではなかったが、ベアトリクスの前で平然と言えるのは、やはりどうかしている。


 けれど、ベアトリクスは席を立たなかった。


「セシーリエを責めるなと仰るのですか」


「証明できるまではな。後から婚約したことと、先の婚約を知って奪ったことは別だ」


「では、わたくしには何が残るのです」


 ヴァンフリートは婚約証書を指で叩いた。


「これが残ってる。お前とオスカーが婚約したという事実だ」


「届出はありません」


「法院がまだ書いてないことと、起きなかったことは同じじゃない」


 ベアトリクスは、机の上の証書を見た。先ほどまで背を支えていた硬さが、ほんの少しだけほどけた。しかし顔を伏せることはしなかった。


「お前はオスカーを取り戻したいのか」


 長い沈黙のあと、彼女は答えた。


「まず、わたくしとの婚約が存在したと認めさせたいのです」


「その後は」


「その後に決めます」


「結構。お前の人生にしては、珍しくお前が決めるらしい」


 棘のある言い方だったが、ベアトリクスは怒らなかった。


「お引き受けくださいますか」


「先の婚約が存在したことは争う。終わっていないうちに別の婚約を届けたなら、そこも争う。だが、セシーリエが故意に奪ったという話まで俺に背負わせるな。証拠が出れば使う。出なければ捨てる」


「わたくしに不利でも?」


「お前に不利な事実を隠せば、あとで相手が拾う。俺は相手の机を片づけてやる趣味はない」


 ベアトリクスはしばらく彼を見つめ、それから手袋を外した。


 署名する指は、声よりも冷えていた。

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