第9話
夜明け前の駅宿には、馬の白い息が幾筋も漂っていた。御者が革手袋の手で轅を確かめるたび、旅馬車の脇に下げられた灯が小さく揺れ、凍った中庭へ淡い光をこぼした。
ヴァンフリートとアエミリアを乗せた馬車は、蹄の音を連ねながら街道へ出た。夜のうちは窓硝子に二人の姿が映っていたが、空が白みはじめると、凍った畑や葉を落とした林がその向こうへ現れ、宿駅ごとに馬を替えるうち、遠い家々の煙突から朝の煙が昇りはじめた。
学院から届いた返書には、フェリクスが卒業後の連絡先として届けていた住所が添えられていた。出立前には、先触れとして短い面会状も送ってある。姉が死んだことと、弟の財産が動いたこと。その二つしか書かなかった。
「何から話しますか」
車輪が凍った轍を越え、アエミリアの膝に置かれた書類袋が小さく跳ねた。
「本人が知ってるところまでは、本人に話させる」
「知らないことだけを渡すのですね」
「人間は説明されすぎると、理解したふりを始める。役人と教師があれだけ元気なのは、そのおかげだ」
幾つ目かの宿駅を過ぎた頃、馬車は川沿いの小さな町へ入った。冬の川は鉛のように鈍く、岸辺に残った薄氷だけが、傾きはじめた日を細く返していた。
フェリクスの住まいは、その川から坂を一つ上がったところにあった。古い煉瓦造りの二階で、扉の横には前の住人が外したらしい表札の跡が白く残っている。
戸を叩くと、間を置かずに男が出た。手には先に送った面会状があった。
「ローエンハイム代言人ですか」
「そうだ。お前がフェリクスなら、今日は互いに無駄足じゃない」
フェリクスは二人を部屋へ通した。窓辺に机があり、その脇へ本が積まれていた。暖炉の火は小さく、湯を沸かすには足りても、部屋全体を暖めるほどではなかった。
「父に何かあったのですか」
「父親は生きてる。厄介事も元気だ。俺へ書類を送ったのは、お前の姉の方だ。死ぬ前にな」
フェリクスの目が、ヴァンフリートからアエミリアへ移った。
「死亡の知らせは来ました。けれど、手紙は何も」
「お前宛てには書かなかったらしい。最後まで、話す相手を自分で選んだ」
ヴァンフリートは椅子に腰を下ろしたが、書類袋には触れなかった。
「母親について、何を聞いてる」
「アマーリエという名で、リッテンドルフ家に仕えていたと。僕を産んで間もなく病気で亡くなり、そのあと父が僕を認知した。それだけです」
「エレオノーレとの関係は」
「父の妻だった方です」
「綺麗に掃除された話だな。家の昔話は、都合の悪い死人から先に片づける」
アエミリアが、最初の紙を机へ置いた。
エレオノーレの実家に残っていた古い奉公人記録だった。まだ少女だったアマーリエの名があり、その隣に、主人の娘であるエレオノーレ付きと記されている。
「お母様の家は、代々エレオノーレ様のご実家へ仕えていました。お二人は幼い頃から同じ屋敷で育ち、エレオノーレ様が嫁がれる時にも、お母様が侍女として同行しています」
フェリクスは紙へ目を落とした。
「母は、あの家へ最初からいたのではないのですか」
「エレオノーレが連れて来た」
ヴァンフリートは答えた。
「それから、お前の母親は主人の夫の子を身ごもった。近くにいた女を裏切ったのも事実だし、裏切られた女が妊婦を仕事も家もない外へ追い出したのも事実だ。どっちか一人を聖人にする相談なら、俺は宿駅ごとに馬を替えてまで来なかった」
アエミリアは次の紙を置いた。アマーリエへの給金が、冬の途中で不意に途切れている。その日から出産までの月を追えば、追放された時にはすでに身重であったことが分かった。
「これは、姉が書いたものですか」
「違います。給金の記録です。追放の日はそこに、あなたの誕生は出生簿に残っています。その後、お母様が薬を受け取ったことも、薬舗の帳面で確かめました」
「つまり、姉の話を信じて来たのではないのですか」
ヴァンフリートは片方の眉を上げた。
「手紙だけを信じて、揺れる馬車に何日も尻を痛めつけられるほど、俺は旅が好きじゃない。死人の言葉は訂正できない。だから、喋らない紙と、生きてる証人へ聞いた」
アマーリエは一人でフェリクスを産み、針仕事で暮らしていた。やがて病を得て、薬代さえ滞るようになると、エレオノーレから金が届き始めた。医師も来た。二人は何度か会っている。
しかし、昔の年月が戻るより先に、アマーリエは亡くなった。
「奥様は、エレオノーレ様は、母を許したのですか」
「そう言ったらしい」
ヴァンフリートは乾いた声で答えた。
「便利な言葉だ。許す側は気分が軽くなる。追い出された冬まで春になるわけじゃない」
アエミリアは、エレオノーレが病床で残した覚書をフェリクスへ渡した。
フェリクスは立ったまま読み始めたが、途中で椅子を引いた。
――わたくしがアマーリエへしたことを、あの子にまで繰り返してはなりません。この家の都合で、あの子の行く先を奪わないでください。
一度読み終えたあと、彼は初めの行へ戻った。紙を持つ指に力が入り、古い覚書の端がかすかに鳴った。
「だから、僕なんかの為に教育費を」
「教育費だけじゃない」
ヴァンフリートは資金設定書を開いた。
「成人した後、家を離れても生きていけるように、通常の家産から切り離した金だ。爵位も家督も姉のまま。お前をあの家へ縛りつけるためじゃない。あの家がなくても、お前が自分で行き先を選べるように残した」
「そんな財産があるとは、聞いていません」
「それで話がやっと現在へ来る」
アエミリアが受領書を差し出した。
フェリクスは末尾まで読み、そこにある自分の名を見た。顔を近づけるでもなく、すぐに言った。
「僕の字ではありません」
「だろうな。その日、お前はこの町にも王都にもいなかった。学院の寄宿舎で試験を受けてる。出席簿に教師の署名まである。欠席して偽造へ参加するには、ずいぶん勤勉だ」
「では、誰が」
「姉だ」
部屋の外を荷車が通った。車輪が凍った道を軋ませ、その音は坂の下へゆっくり遠ざかっていった。
フェリクスは受領書を伏せなかった。
「姉が、僕の金を受け取ったのですか」
「先に手をつけたのは父親だ。家が急場にある、一時的に借りる、必ず戻す。そんな話を姉へして、使用の承認を取った」
「……実際には」
「賭博の借金だ。金が動いた直後に、賭場の掛け勘定が軽くなってる。見事な相関関係だ。因果もおまけでついてくる」
フェリクスの指が、偽の署名の上で止まった。
「姉は、それを知っていたのですか」
「金が何のために残されたかは知ってた。使い道については、父親に嘘をつかれた。だから騙されたのは事実だ。意味を知りながら署名したのも事実だ」
ヴァンフリートは、そこで初めてコーデリアの手紙を出した。全文ではなく、資金の使用と、その後の処理について書かれた箇所だけを開いて渡す。
コーデリアは父を公に告発せず、自分の装身具や家の品を売り、失われた金を戻そうとした。そして残った資金を父や債権者から遠ざけるため、フェリクスがすべて受け取ったという書面を作った。
フェリクスは長く手紙を読んでいた。
「守ろうとしたのですか。それとも、奪ったのですか」
「両方だ」
ヴァンフリートは即座に言った。
「姉はお前の金を守ろうとした。ついでに、お前の答えまで守ったつもりになった。金を受け取るか、家へ戻るか、父親をどうするか。本人に聞かず、全部な」
「姉からの手紙には、いつも、帰らなくていいと書かれていました」
フェリクスは窓の方を見た。川の光が硝子に白く揺れていた。
「家のことは自分が片づけるから、僕はここで暮らせばいいと。けれど一度も、帰りたいかとは聞かれませんでした」
「親切な家族だな。質問を省いて、答えだけ届けてくれる」
毒のある言葉だったが、フェリクスは怒らなかった。しばらくして、手紙を覚書の横へ戻した。
「姉は、なぜ死んだのですか」
「知らん」
ヴァンフリートの声は変わらなかった。
「父親の賭博も、自分が金を使う側へ回ったことも、偽造したことも、長年一人で後始末したことも書いてある。だが、それを一本の綺麗な理由に束ねるな。生きてお前に話す道も、父親を告発する道も残ってた。姉は選ばなかった。それ以上を死人の代わりに説明すれば、今度は俺があいつの人生を偽造することになる」
アエミリアは最後の記録を出した。
日付を見たフェリクスが、コーデリアの死亡通知を机の引き出しから取り出した。
二つを並べる。
資金が動いた日は、姉の死より後だった。
「これは」
「お父様が単独で承認した出金記録です」
アエミリアが言った。
「同じ日に、賭場へ対する大きな精算がありました」
「姉が死んだあとも、父親はやめなかった」
「三日と経ってないのにな」
ヴァンフリートは椅子の背へ身を預けた。
「ここから先は姉のせいにできない。死人は署名できないからな。今残っている分は、照会を受けた保管商会が一時的に動かさないようにしてある。だが俺の機嫌が悪いというだけで、他人の財産を永久に止める法律はない。本人の意思が要る」
「姉は、あなたに何を頼んだのですか」
「父親の罪だけで終わらせず、自分の罪も暴けと書いた」
「その望みどおりに、僕は動くべきでしょうか」
「死んだ姉の望みは、お前への命令じゃない」
ヴァンフリートは机の上の書類を、どれも片づけなかった。
「残った金をお前の管理へ移すことができる。偽造された受領書を無効にして、受け取ったことにされた状態も消せる。父親が使った分を返せと求めることも、姉の死後に動かした金について別の手続を取ることもできる」
そこで一度言葉を切り、窓の外を見た。
「家へ戻る必要はない。金だけ取り戻して、父親とは会わないこともできる。どこまで追うかも、お前が決めろ」
「何もしないこともできますか」
「できる」
ヴァンフリートはフェリクスへ目を戻した。
「ろくでもない自由だが、自由は俺の気に入る答えだけを選ぶ権利じゃない」
暖炉で薪が崩れ、赤い火の粉が一つ上がった。
アエミリアは何も言わなかった。委任状も、筆も出さず、フェリクスが伏せた書類を見つめていた。
フェリクスは母の記録を読み返し、エレオノーレの覚書へ戻り、最後に姉の手紙を閉じた。冬の日はすでに傾いていたが、彼が考えているあいだ、二人は席を立たなかった。
「あなたは、僕にどうしてほしいのですか」
「まだ他人に答えを書かせるのか」
フェリクスが顔を上げた。
「俺が持って来たのは事実と、選べる手続だけだ。姉の代わりにも、父親の代わりにも、お前の代わりにもならん」
ヴァンフリートは短く訊いた。
「依頼するか」
フェリクスはすぐには答えなかった。
窓の下を流れる川は、薄氷を岸へ残しながら、暮れかけた光の中をゆっくり動いていた。水は誰の許しも待たず、けれど同じ場所へ戻ることもなく、遠くへ続いていた。
「お願いします」
フェリクスは言った。
「ただし、家へ戻るかどうかは自分で決めます」
「それでいい。そこまで俺に頼むな」
アエミリアはそこで初めて書類袋から委任状を出し、机の上へ置いた。
フェリクスは一行ずつ読んだ。残存資金の管理移転、偽造受領書の訂正、流用分の調査と返還請求。父に対する手続の範囲は、本人の追加の指示なく広げないと記されている。
読み終えると、彼は筆を取った。
紙の末尾へ、自分の名を書く。
その署名は、受領書にあったものより少し角張り、最後の一画だけが長かった。
窓から差した冬の名残の光が、誰にも代わって書かれなかった名の上を、静かに渡っていった。




