第1話
朝から降っていた雨は、法院通りの石畳を黒く磨いたあと、昼前になってようやく細くなった。軒を伝う雫が古びた机の脚もとへ落ち、そのたび、小さな水の輪が生まれては消えた。
外套を濡らした郵便配達人が、一通の厚い封筒を机へ置いた。
「ローエンハイム代言人へ」
「見れば分かる」
ヴァンフリートは書類から顔を上げずに言った。
「俺以外に、この机へわざわざ厄介事を送る物好きがいるなら紹介しろ。仕事を半分押しつける」
配達人は聞かなかったふりをして去った。
アエミリアは封筒を取り上げた。薄い鼠色の紙に、宛名だけが黒々と書かれている。雨を吸った端は少し柔らかくなっていたが、赤い封蝋には傷一つなかった。
裏返したところで、彼女の指が止まった。
「先生」
「今度は差出人まで俺か」
「コーデリア・フォン・リッテンドルフ、とあります」
ヴァンフリートが顔を上げた。
雨の音ばかりが、しばらく二人のあいだを通った。
「亡くなっています」
「それは返事を急がなくていい相手だな」
「三日前の死亡告示に載っていました。リッテンドルフ子爵家の跡取り娘、二十五歳」
「若く死ねば人生が清潔だったことになるらしい。長生きした人間には気の毒な習慣だ」
アエミリアは封を切らず、表の消印へ目を近づけた。雨に滲んだのではない。押された日も、局の名も読める。
「出されたのは、亡くなる前です」
「死んでから出したのでなければ、今のところ墓地の郵便事情は疑わずに済む」
「けれど、本人が書いた証明にはなりません」
ヴァンフリートはわずかに眉を動かした。
「雇ってからようやくまともなことを言ったな。給料の払い甲斐もようやく出てきた」
「給金はいただいたことがありませんが」
「ああ、財布に優しい助手だ」
ヴァンフリートは小刀を差し出した。
「死人の名を借りた生者かもしれない。本人が書いても、中身が本当とは限らない。封を開けろ」
アエミリアは小刀を差し入れる。乾いた封蝋が割れる音は、雨音よりもはっきり聞こえた。
中から幾枚もの紙が滑り出した。最初の一枚には細い字が隙間なく続き、その下に書類の写しが重ねられている。紙束のあいだから、もう一通、小さな封筒が落ちた。
アエミリアは先に手紙を取った。
「読みます」
「俺の名前で始まっていないところからでいい」
冒頭には、時候の挨拶も、自らの死を匂わせる言葉もなかった。
――フェリクス・リッテンドルフは、彼のために分けられていた金を受け取っておりません。
アエミリアは一度、声を止めた。
「フェリクスという方は、コーデリア様の異母弟だそうです」
「続けろ。死人は家の事情を読まれても赤くならん」
――受領書には、全額を受け取り、今後いかなる請求もしないとあります。しかし、彼は受け取っていません。その書面を信用しないでください。
紙束の中ほどに、受領書の写しがあった。フェリクスの名で、確かにそう書かれている。末尾には署名まであった。
アエミリアは手紙と受領書を並べた。
「片方は受け取ったと書き、片方は受け取っていないと書いています」
「紙が二枚あれば真実も二つになる。役所と貴族が好む算術だ」
「この署名が本物でも、お金を受け取ったことまで証明するとは限りません」
「ずいぶん高い授業料を払った成果だな」
アエミリアは返事をせず、受領書の紙質と印を確かめた。
その次には、フェリクスの教育と、成人後の独立のため、家の通常の金とは別に財産を置くと記された古い書面があった。設けた者の名は、故エレオノーレ・フォン・リッテンドルフ。コーデリアの母であり、フェリクスにとっては父の正妻にあたる女性だった。
「ご自分の子ではない方のために、別の資金を残したのですか」
「らしいな」
「なぜでしょう」
「分からん。分からないものへ立派な理由を足すな。善意は、調べる前がいちばん美しい」
さらに紙を繰ると、その資金から一部が引き出された記録が現れた。使途は、家の急な支払いとだけ書かれている。承認欄には二人の名があり、一人は現当主ゲオルク。もう一人は、死んだコーデリアだった。
アエミリアは、そこを二度読んだ。
「コーデリアも、資金を動かすことを認めています」
「署名が本物ならな」
「父親だけを告発しているのではないのでしょうか」
「告発する娘が、自分に不利な紙まで同封した。親切なのか、別の嘘を隠すためなのか、死ぬ前に急に公平へ目覚めたのか。どれでもいい。今決めると、調査じゃなくて読書感想文になる」
手紙の末尾には、父ゲオルクがフェリクスの財産へ手をつけたとあった。だが、その直後にコーデリア自身の字で、私の言葉を信じず、書類を調べてください、と記されていた。
アエミリアは小さな封筒を取った。
表には一行だけあった。
――母がなぜこの金を残したか、確かめてからお読みください。
「こちらも開けますか」
「開けない」
「差出人の指示に従うのですか」
「死人の言いつけを守る趣味はない。先に告白を読めば、どの紙も告白どおりに見えてくる。人間は答えを知ると賢くなるんじゃない。間違い方が上手くなるだけだ」
ヴァンフリートは小さな封筒を受け取り、机の隅へ置いた。その上に硝子の文鎮を載せる。封じられた手紙は、雨空の淡い光を受けたまま黙っていた。
アエミリアは第一通へ視線を戻した。
「では、誰が依頼人なのですか」
「いない」
「コーデリアではありませんね」
「死人は依頼人になれない。説明を聞いて考え直すことも、費用に文句をつけることも、途中でやめることもできない。死んだ人間を依頼人にすると、代言人は何でも本人の望みだったことにできる。便利すぎるだろ」
「フェリクスも、まだ何も知りません」
「だから、まだこいつも依頼人じゃない」
「それでも調べるのですか」
ヴァンフリートは受領書を持ち上げ、明るさへ透かした。署名の黒だけが、紙の向こうへ冷たく浮いた。
「受け取っていない人間が、受け取ったことにされている。しかも金は消えているらしい。死んだ女の名誉には興味がないが、生きている人間の財産が紙の上で葬られたなら、埋めた奴くらいは確かめる」
「先にフェリクスへ会わなくてよいのでしょうか」
「偽物かもしれない手紙を持って行って、お前の父親は盗人で、死んだ姉も怪しいと教えるのか。ずいぶん親切だな。確認できることを確認してからだ。家族の不幸は、早く届ければ新鮮だというものでもない」
アエミリアは新しい紙を一枚出した。
まず、フェリクスは本当に金を受け取っていないのか、と書いた。その下へ少し間を空け、なぜエレオノーレは彼のために金を分けたのか、と続けた。
ヴァンフリートは二つの問いを見て、コーデリアの手紙をその横へ戻した。
「死者の告発なんてものは、大抵、生きている奴が聞いてほしかった話だ。問題は、誰の声で喋っているかだな」
雨はいつの間にかやんでいた。軒から落ちる雫もまばらになり、濡れた法院通りには、雲の切れ間から薄い光が差していた。
封を閉ざした二通目だけが、文鎮の下で夜のように暗かった。




