第10話
法院の裁定から六日目、リヒテンハーゲン家の支払いが届いた。
十一か月分の実務に相当する金と、ユリアーネが自分の財布から立て替えていた分とが、法院の控えを添えて一つにまとめられていた。
金額は小さくなかった。
けれど、法院通りの古びた机へ置かれると、革袋は不思議に静かであった。金というものは人の手に入るまでは騒がしく、入ってしまえば、ただ重い。
ユリアーネはその紐を解かず、隣へ一枚の紙を置いた。
最初の日に持ってきた謝罪書である。
上等な紙は、何度か折り直されたため、角が少し柔らかくなっていた。署名欄には、今も何も書かれていない。
「まだ持ってたのか」
ヴァンフリートが言った。
「はい」
「紙にも愛着を持つ性格か。古紙屋に向いてる」
「これがなければ、こちらへ来ることもありませんでした」
「首輪に恩を感じるな。犬でももう少し相手を選ぶ」
ユリアーネは謝罪書を開いた。
女主人の地位を侵そうとした。
自分を家の管理者だと思い込んだ。
許されない領域へ勝手に立ち入った。
かつては、どの言葉までなら認めてもよいのか分からなかった。すべてを拒めば、自分のしたことまで消すように思えた。すべてを認めれば、あの家で過ごした十一か月が、ひどく醜いものへ変わる気がした。
今は、そのどちらでもなかった。
ユリアーネは紙の余白へ目を落とした。
「契約を変える前に、確認すべきでした」
「法院にもそう言った」
「はい。今も、そのことは謝るべきだと思っています」
「なら謝ればいい」
「ですが、家を奪おうとしたとは認めません」
「それも法院で言った」
「自分でもう一度、言いたかったのです」
ヴァンフリートは彼女を見た。
「俺は日記じゃない。毎日同じことを言いに来るな」
ユリアーネの口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
彼女は謝罪書を二つに折った。破らず、署名もせず、日誌の間へ挟んだ。
アエミリアは革袋を見た。
「お受け取りになるのですね」
「はい」
ユリアーネは少し迷ってから、その上へ手を置いた。
「初めは、受け取れば、アードリアン様を愛していたことまで嘘になるように思いました」
「今は?」
「愛していたことと、働いていたことは、どちらも本当です」
春の風が通りを抜けた。
机の上の日誌が開きかけ、挟まれた謝罪書の白い端がのぞいた。ユリアーネは手で押さえたが、以前のように隠そうとはしなかった。
「アードリアン様を、すべて嘘だった方だとは思いません。感謝してくださったことも、気遣ってくださったこともございました」
「人間は一つくらい本当のことを言う。そこを理由に残りまで信じるから、詐欺師も恋人も食いっぱぐれない」
「先生」
アエミリアがたしなめた。
「何だ。アードリアンを褒めろって?」
「そこまでは申しません」
「なら黙ってろ。依頼人の昔の男を慰める料金はもらってない」
ユリアーネは笑いを押さえるように目を伏せた。
「婚約は、戻しません」
「法院が解消したばかりだ。戻したいと言われたら、今度は俺が謝罪書を書かせる」
「何についてですか」
「俺の時間を二度も無駄にしたことについてだ」
ユリアーネは革袋を鞄へ収めた。
それは愛情の代金ではなかった。
朝ごとに帳簿を開き、使用人の話を聞き、家の火を絶やさぬよう考えた時間の返還であった。十一か月は戻らない。それでも、何もしていなかったことにも、勝手に家を奪おうとしたことにもされず、自分の名の下へ戻ってきた。
「ありがとうございました」
「礼は要らん。金は払え」
「もうお支払いしております」
「それなら礼くらい言って帰れ」
ユリアーネは一瞬きょとんとし、それから改めて頭を下げた。
「ありがとうございました」
「今度は帳簿を触る前に、誰が責任を取るか聞け」
「はい」
「愛してる相手ほど先に聞け。愛情を権限書に使う人間は、署名欄だけは見落とさない」
ユリアーネは頷いた。
彼女が通りの人波へ消えるまで、アエミリアはその後ろ姿を見送った。
最初にこの机へ来た時より、歩き方が強くなったわけではない。胸を張り、誰もが振り返るほど晴れやかになったわけでもない。
ただ、自分の鞄を自分のものとして持っていた。




