↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/33

第5話

 金の話をすると、ユリアーネは決まって日誌を閉じた。


 その朝もそうだった。


 法院通りには柔らかな日が差し、石畳を行く人の影まで春めいていたが、机の上だけは冬の続きを残しているようであった。燃料代の控えと日誌のあいだに、ヴァンフリートが一枚の紙を置くと、ユリアーネの指は表紙の上で固く重なった。


「十一か月分の支払いを求める」


「それはできません」


「早いな。額も聞かずに断るのか。金勘定より罪悪感の方が勤勉らしい」


「お金の問題ではありません」


「金を断る時に人間が一番よく使う台詞だ。たいてい後で金の問題になる」


 ユリアーネは紙を見なかった。


「わたくしは、家族になるつもりでお手伝いしました。アードリアン様のお役に立ちたかったのです。それを今になって、働いたのだから支払ってくださいなどと……」


「すると愛情が傷つく?」


「そうではありません」


「じゃあ何が傷つく」


 ユリアーネは答えようとして、唇を結んだ。


 ヴァンフリートは急かさなかった。自分の手元へ紙を引き戻し、余白へ何かを書き足している。アエミリアは隣で日誌を押さえていたが、ユリアーネの顔を見たまま黙っていた。


「アードリアン様は、何度も感謝してくださいました」


 やがてユリアーネは言った。


「母上の留守を守ってくれて助かったと。わたくしが疲れている時には、無理をしなくてもよいと書いてくださいました。あの方が最初から、わたくしを働かせて得をしようとなさったとは思えません」


「俺も言ってない」


「ですが、支払いを求めれば、そういうことになりませんか」


「ならない。お前が働いたことと、あいつが最初からお前を騙したことは別だ。何でも一緒にするな。恋愛は鍋料理じゃない」


「わたくしは、使われたのではありません」


「それを決めるために、アードリアンの心臓を割って中身を調べるつもりはない。感謝した。それは本当だ。止めなかった。それも本当だ。お前が十一か月家を動かした。これも本当だ」


 ヴァンフリートは筆を置いた。


「心の中が善良なら、外で起きたことが消えると思うな」


 ユリアーネの目が伏せられた。


「支払いは、愛情を売ることのように思えるのです」


「お前が売るのは愛情じゃない。十一か月だ。愛は返してもらえないが、時間には値段を付けられる」


「先生」


 アエミリアが低く呼んだ。


「何だ」


「決めるのは、ユリアーネ様です」


「知ってる。だから説明してる」


「説明というより、追い立てているように聞こえます」


「俺が優しく言えば内容が変わるのか?」


「変わりません。ですが、答える速さは変わります」


 ヴァンフリートは面白くなさそうに彼女を見た。


「椅子を置いて三日で口まで増えたな」


「耳だけでは足りないと分かりましたので」


 彼は鼻を鳴らし、再びユリアーネへ向いた。


「要らないなら取らなくていい。お前の金だ。ただし、愛していたことを証明するために捨てるな。そんな証明を欲しがる男なら、金より先に捨てろ」


 ユリアーネは日誌を胸元へ引き寄せた。


「少し、考えさせてください」


「好きなだけ考えろ。考えた後まで、俺のせいにはするな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。