第3話
リヒテンハーゲン家の屋敷は、冬を越したばかりの静けさに包まれていた。
庭の木々にはまだ柔らかな芽しかなく、石造りの壁に沿って残った苔が、日の当たるところから乾きはじめている。
玄関を入った途端、奥から来た年嵩の女中がユリアーネを見つけた。
「ユリアーネ様、厨房から今月の――」
そこまで言って、女中は立ち止まった。
手にしていた紙を胸元へ引き戻し、主人の家へ戻ってきた客に対する礼へ改めた。その変わり方はあまりに急で、かえって日頃の習慣だけが残った。
ヴァンフリートは女中の紙を見た。
「今、何を報告しようとした」
「古い習慣でございます。失礼いたしました」
「謝罪は頼んでない。何を報告してた」
「厨房の支払いです。以前はユリアーネ様へお持ちしておりましたので」
「誰にそうしろと言われた」
「家令でございます」
女中はそれだけ答え、深く頭を下げて去った。
ユリアーネは、その後ろ姿を見送った。呼び止めることも、昔のように紙を受け取ることもできなかった。
老家令エーベルハルトは、南向きの小さな部屋にいた。
窓際の机には大きな拡大鏡が置かれ、書類は顔を近づけなければ読めないほどになっている。かつては背筋の伸びた男だったのだろうが、今は腰が少し曲がり、立ち上がる時には机の端へ手を添えた。
「ユリアーネ様が熱心でいらしたのです」
事情を聞くと、エーベルハルトはまずそう答えた。
「こちらから強いたわけではございません。家のことを覚えたいと、よく帳場へおいでになりました」
「熱心だった。立派な性格紹介だ」
ヴァンフリートは椅子へ座らず、机の拡大鏡を指で動かした。
「誰が仕事を渡した」
「仕事と申しますほどのものでは……花嫁教育の一環として、家政をご覧いただいたのです」
「見るだけの人間に帳簿を渡すのか」
「多少の書き込みはお願いしました」
「鍵は?」
「必要な場所へ入るために」
「補助印は?」
エーベルハルトの目が下がった。
「支払いを滞らせるわけにはまいりませんでしたので」
「誰が使用人に、ユリアーネへ報告しろと言った」
「私です」
「帳簿を渡したのは」
「私です」
「鍵も?」
「はい」
「印も?」
「……はい」
エーベルハルトの声は次第に小さくなった。
ヴァンフリートは彼の伏せた顔をしばらく見ていた。
「お前が老いたことを責めてるんじゃない。誰に仕事を渡したか聞いてる」
エーベルハルトは膝の上で両手を重ねた。節くれ立った指はわずかに震えていた。
「冬の前から、目がひどく悪くなりました。帳簿を読み違え、支払いの日を取り違えることもございました。足も、以前のようには動きません」
「それで?」
「屋敷を止めるわけにはまいりませんでした」
窓から差す光が、机の上に置かれた拡大鏡を通り、白い紙へ小さな明かりを落とした。
「私が、ユリアーネ様へ頼みました」
ユリアーネは老家令を見つめた。
「ですが、わたくしがすると申し出たのです」
「申し出てくださいました。しかし、お断りすることもできました。私はそうしませんでした」
エーベルハルトはゆっくり顔を上げた。
「使用人たちへも、当面はユリアーネ様へ報告するよう私が伝えました。帳簿も鍵も印も、私が渡しました。あの時、あの方がおられなければ、家の仕事は滞っていたでしょう」
その言葉は感謝というより、長く伏せていた自分の衰えを、ようやく認める声であった。
厨房の女中も、玄関を預かる使用人も、エーベルハルトから同じ指示を受けたと答えた。
ユリアーネが自分を女主人だと名乗ったことはなく、何かを頼む時にも、ヴィルヘルミナの留守を預かる者として話していたという。
けれど、燃料商人のことを尋ねると、エーベルハルトは首を横へ振った。
「そこまでは頼んでおりません」
「商人を替えるなと伝えた?」
「伝えてはおりません。しかし、長い付き合いのある商人です。契約そのものを変更するなら、奥様へ確認すべきでした」
「つまり、替えていいとは言ってない」
「はい」
ヴァンフリートはユリアーネを見た。
「聞いたな。ここはお前の落ち度だ」
「はい」
彼女は言い訳をしなかった。
「冬の分が足りないと分かった時、以前の商人からは、必要な量を揃えられないと言われました。価格も上がっていました。ヴィルヘルミナ様へお手紙を差し上げましたが、お返事を待てば寒さに間に合わないと思い、別の商人と短い契約を結びました」
「判断が正しかったかと、決める権限があったかは別だ」
「分かっております」
「今はな。替える前にも分かってれば、俺の仕事が一つ減った」
エーベルハルトが支払いの控えを出した。
新しい商人から燃料が届いた日、その量、支払った額が記されている。ユリアーネが契約を替えた後、燃料は予定どおり屋敷へ入り、費用は以前よりも下がっていた。
最初の支払いの頃、ヴィルヘルミナはまだ不在だった。
だが、次の頁から筆が変わっている。
アエミリアは紙を窓の方へ寄せた。
「この確認は、ヴィルヘルミナ様のものですか」
「はい。お戻りになった後は、奥様がご覧になりました」
「商人が替わったことも?」
「ご存じでした」
「価格が変わったことも?」
「はい」
「それでも支払ったのですね」
「すでに届いた燃料でございましたから」
エーベルハルトの答えに、ヴァンフリートは次の頁を開いた。
「こっちは、その後の支払いだ」
「冬の間は必要でしたので」
「燃料は必要だ。前の商人へ戻すことも、新しい注文を止めることもできた。なのに次も受け取って、金を払った」
さらに日が過ぎても、ユリアーネは家政から外されていなかった。帳簿には彼女の書き込みが続き、その横にヴィルヘルミナの確認が残っている。
アエミリアが言った。
「では、最初から契約を替えることも許されていたのでしょうか」
「違う」
ヴァンフリートはすぐに切った。
「替える前の許しはない。そこを都合よく埋めるな」
「ですが、後から知って、そのまま使っています」
「そうだ。前から許したことにはならない。知った後で受け入れたことにはなる。二つの話を一つの鍋で煮るな。味が濁る」
アエミリアは支払いの控えを見直した。
ユリアーネの確認不足は消えない。けれど、ヴィルヘルミナは契約変更を知った後も、その燃料で屋敷を暖め、代金を払い、ユリアーネへ仕事を続けさせている。
すべてを知らずに利用していたのではなかった。
古くからの商人が不満を訴え、付き合いを損なったことが家の問題になってから、初めてユリアーネの独断が罪のように語られ始めたのである。




