第2話
夜会の花がしおれるより先に、話は王都へ広がった。
ハルデンブルク伯爵家の嫡男は、浪費と嫉妬に耐えかねて婚約を破棄した。
ゾンダーブルク家の令嬢は自らの持参金を不必要なほど婚礼支度へ注ぎ込み、それを諫めた身分の低い娘を人前で罵った。
語る者によって言葉は少しずつ変わったが、結末は変わらなかった。
悪いのはアエミリアだった。
父は娘を責めなかった。
夜会から三日後、書斎へ呼んだ父は、机の向こうで長く黙っていた。
窓から入る午後の光が、白髪の増えた横顔を静かに照らしていた。
「お前の話を信じていないわけではない」
その前置きが、かえってアエミリアを疲れさせた。
「ですが、争わない方がよいとお考えなのですね」
「署名はお前のものだ。金が出たことも事実だという。夜会で何を言ったかは、大勢が聞いている」
「わたしも否定しておりません」
「ならば法院へ持ち込めば、その三つを何度も人前で語ることになる。家の名にも、お前自身にも傷が残る」
「今は残っていないと?」
父は答えなかった。
彼は娘を売ろうとしているのではなかった。
ただ、これ以上失うものを増やしたくないのである。
その慎重さが、今のアエミリアには見捨てられることとよく似ていた。
ハルデンブルク家から届いた和解書には、持参金の一部を返すとあった。
その代わり、アエミリアは婚礼準備で金を浪費したことを認め、リーナへの振る舞いを謝罪し、婚約破棄の責任を受け入れたうえで、今後いかなる請求もしない。
家の顧問も、それが最も傷の浅い道だと言った。
相談した代言人は、もっと率直だった。
「婚約を戻すのは難しいでしょう」
「戻したいとは申しておりません」
アエミリアが答えると、代言人はわずかに困った顔をした。
婚約を破棄された令嬢が望むものは、婚約を戻すことか、より多くの慰謝であるべきらしかった。
そのどちらでもない依頼人は、扱いにくい。
「では、和解をお勧めします。持参金の一部は戻りますし、これ以上評判を損なわずに済む」
「浪費したと認めれば、今ある評判が事実になるのではありませんか」
「署名はご本人のものでしょう」
「はい」
「それでは争うのは難しい」
話はいつも、そこへ戻った。
アエミリアは和解書を持って法院通りへ出た。
石造りの建物が並ぶ通りには、代言人たちの磨かれた看板が続いていた。
どの扉も重く、どの窓にも上等なカーテンが掛かっている。その列が途切れたところに、一つだけ屋根のない机があった。
風雨に晒された木の表面は黒ずみ、片方の脚には折った紙が噛ませてある。
机の上の小さな名札には、ヴァンフリート・フォン・ローエンハイムとあった。
その男は、風にめくれようとする書類を片手で押さえながら、もう片方の手で何かを書いていた。
アエミリアが前へ立っても顔を上げなかった。
「ローエンハイム代言人ですか」
「違うと言ったら、隣の立派な扉へ行くのか」
「そのつもりはありません」
ようやく上げた目には、客を迎える愛想が少しもなかった。
アエミリアは和解書を胸元へ抱き直した。
「婚約破棄について、ご相談があります」
「婚約破棄なら帰れ」
あまりに早く言われたので、礼を失したことへ腹を立てるより先に、意味を取り損ねた。
「まだ何もお話ししておりません」
「聞いた。婚約破棄だ。誰と誰が愛し合って、どこの親が泣いて、どっちが真実の愛を見つけたか。俺は詩人じゃない。帰れ」
「婚約を戻したいのではありません」
ヴァンフリートの指が止まった。
「持参財産を取られました」
彼は机の下へ靴先を入れ、低い腰掛けを押し出した。
「婚約破棄なら帰れ。略奪なら座れ」
アエミリアは腰掛けを見た。
客を座らせるためというより、書類の束を置くためのものに見えた。
それでも座った。
ヴァンフリートは手を出した。
「署名したか」
「しました」
「何に」
「婚礼衣装と、新居の整備と、家財の支払いに必要だと聞きました」
「細かい支払先まで見たか」
「いいえ」
「金額は」
「見ました」
「大金だと分かって署名した?」
「はい」
彼は眉一つ動かさなかった。
「夜会で女を罵ったか」
アエミリアは答えるまでに少し時間を要した。
「……言いました」
「何もしていないのに、可哀想な男から婚約を破棄された。そういう話じゃないわけだ」
「違います」
「婚約を戻したいか」
「いいえ」
その答えだけは迷わなかった。
ヴァンフリートは初めて、書類ではなくアエミリアの顔をまともに見た。
「では、何を取り戻したい」
「わたしの財産です」
「ほかには」
「わたしの名を」
「名はそこについてる」
彼は支払書の署名を指で叩いた。
「ええ。ですから困っているのです」
アエミリアは膝の上で手を重ねた。
「わたしがしたことまで消してほしいとは申しません。確かめずに署名しました。リーナへ、言うべきでないことも言いました」
その二つを口にすると、夜会の深紅がまた目の奥へ差した。
「ですが、していないことを、したことにされたくないのです」
ヴァンフリートは支払書を取り、しばらく読んだ。
次に和解書を開いた。
「親切だな」
アエミリアは顔を上げた。
「そうでしょうか」
「お前は浪費を認める。金の一部は向こうへ残す。二度と争わない。金を取ったうえで、罪までお前に持たせてくれる。首を絞める縄に房飾りまで付いてる」
紙をめくっていた親指が、日付の上で止まった。
ほんのわずかな間だった。
彼は何も言わず、和解書を支払書の下へ戻した。
「相手は、お前の署名を誰に見せた」
「分かりません。ですが、夜会の前から知っていた方がいたようです」
「女の衣装は、お前のために作られたものか」
「そう思っていました」
「思っていた?」
「仕立て上がったものを見る前に、リーナが着て現れました」
「なるほど」
ヴァンフリートは二枚の紙を机へ並べた。
風が端を持ち上げると、その上へインク壺を置いた。
「署名は本物。金も消えた。お前も女を罵った。ここまでは全部本当だ」
アエミリアは黙っていた。
それは、この三日間に何度も聞かされた言葉だった。
だがヴァンフリートは、そこで話を終えなかった。
「だから妙なんだよ」
彼の指が、署名から金額へ、それから和解書の日付へ移った。
「嘘が一つもないのに、出来上がった話だけが胡散臭い」




