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第1話

 ハルデンブルク伯爵邸は、その夜だけ古さを忘れていた。


 壁は塗り直され、燭台の火を受けた漆喰が、雪のように白く浮かんでいる。磨き上げられた床には人の影が深く沈み、開け放した広間の向こうからは、まだ乾ききらぬ木と石灰の匂いが、花の香に紛れて流れてきた。


 屋敷が美しくなったことを、客たちは伯爵家の盛り返しだと喜んでいた。


 アエミリア・フォン・ゾンダーブルクも、そう思おうとしていた。


 婚礼を前にした家が明るくなるのはよいことだった。いずれ自分も暮らす屋敷である。古びた回廊が直され、雨染みのあった天井に金の縁取りが戻ったことを、喜ばぬ理由はないはずであった。


 しかし、その夜のエーリヒは妙によそよそしかった。


 彼は客の間を歩き、誰に対しても穏やかに笑っていたが、アエミリアと目が合うと、笑みをほんの少しだけ薄くした。近づこうとすれば誰かに呼ばれ、ようやく話せると思えば、給仕へ杯を持ってこさせた。


 避けられているというほど露骨ではない。


 だからこそ、問いただすには形がなかった。


「ご婚礼の支度は、ずいぶん豪勢だそうですね」


 隣に立った老婦人が、扇の陰から言った。


「そうでしょうか」


「エーリヒ様も困っておいででしたわ。あなたに悪気がないことは分かっているけれど、どう申し上げれば傷つけずに済むものか、と」


 アエミリアは老婦人の横顔を見た。


「何を、でしょう」


「あら」


 老婦人は、言ってはならぬことを言った顔をした。


「ご本人からお聞きになっていないのね」


 扇が閉じられた。その音と入れ替わるように楽士が曲を変え、広間の人々が一斉に入口を見た。


 そこに、深紅の衣装を着た女が立っていた。


 燭火の下では赤く、歩けば襞の奥に黒い影を宿す布だった。華やかなのに浮つかず、花嫁の喜びよりも、その先に待つ家の重さを思わせる色である。


 見間違えるはずがなかった。


 アエミリアが婚礼衣装のために選んだ布だった。


 何枚もの布を窓辺へ広げさせ、朝の光と夕暮れの光で色がどう変わるかまで確かめた。仕立屋は、この深紅ならゾンダーブルク家の銀糸にも、ハルデンブルク家の金糸にも負けないと言った。


 その布が、別の女の肩から流れていた。


 リーナ・フォン・メルフェルトは、集まった視線に恥じらうような微笑を返した。けれど足を止めはしなかった。衣装の裾をゆるやかに曳きながら広間を進み、エーリヒのそばで立ち止まった。


 エーリヒは驚かなかった。


 リーナの手を取った。


 アエミリアの中で、何かが音もなく切れた。


「その衣装は」


 自分の声が、思ったより遠くから聞こえた。


 リーナが振り向いた。微笑が消え、代わりに怯えに似たものが浮かんだ。


「アエミリア様」


「どなたから受け取ったのです」


 答えを待つ必要はなかった。リーナの目が、すぐ隣の男へ逃げたからである。


 それでもリーナは答えた。


「エーリヒ様から、贈っていただきました」


「その布が何のために用意されたものか、知っていたのですか」


「わたくしは、ただ――」


「ただ贈られたから着たと?」


 近くにいた客が、わずかに身を引いた。人垣は開くのではなく、二人を囲むように丸くなっていった。


 アエミリアにも、それは見えていた。


 見えていながら、止まれなかった。


「それは伯爵家の婚礼衣装です。あなたのような方が、人前で見せびらかしてよいものではありません」


 言った瞬間、その言葉の醜さだけは分かった。


 布を奪われた怒りと、目の前の女を見下す言葉とは、本来別のものである。だが口から離れた言葉は、もう選び直せなかった。


 リーナの顔から血の気が引いた。


 エーリヒが、その肩を庇うように抱いた。


「もう十分だ」


 声は低かった。怒鳴りもしなかった。


 広間の隅まで届いたのは、声の大きさではなく、皆がその言葉を待っていたからだった。


「何が十分なのです」


「君には何度も、婚礼の支度を控えるよう頼んだ」


 アエミリアは眉を寄せた。


「頼まれた覚えはありません」


「君はそう言うだろうと思っていた」


 エーリヒは悲しげに目を伏せた。


 彼は怒った婚約者ではなかった。長く耐え、ようやく決断した男の顔をしていた。


「私は君の名誉を守りたかった。少々の出費なら、婚礼を楽しみにしているのだと考えればよいと思っていた。だが限度がある。家の事情も考えず金を使い、それを諫めた者へ嫉妬を向け、身分を笠に着て侮辱する。これ以上、見過ごすことはできない」


「わたしが、何に使ったというのです」


 エーリヒは懐から一枚の紙を出した。


 折り目のない紙だった。


 今日この場で使うため、用意されていたかのように白かった。


「これは君の署名だろう」


 紙を受け取ると、婚礼準備のために支払われた額が記されていた。


 大きな額だった。


 下には、アエミリアの署名があった。


 字の末尾がわずかに上がる癖も、長い姓を収めるため途中から文字を細くする癖も、自分のものである。


 いつ書いたものかも思い出した。


 婚礼衣装、新居の整備、家財の準備に必要だと、エーリヒから何枚かの紙を渡された。細かな支払先は後で家の者が整えると言われ、アエミリアは広い項目と金額だけを確かめて署名した。


 客たちの視線が、紙ではなく彼女へ集まっていた。


 この署名を見たことがある者もいるらしい。驚きより、やはりという納得が先に浮かんだ顔があった。


「これは君の署名だろう」


 エーリヒがもう一度言った。


 否定すればよかったのかもしれない。


 知らないと叫べば、少なくとも今夜だけは逃げられたかもしれない。


 しかし、自分の字を他人のものだとは言えなかった。


「……わたしの署名です」


 広間の沈黙が、そこで形を得た。


 エーリヒは目を閉じた。


「アエミリア。君との婚約を破棄する」


 誰も声を上げなかった。


 破談は突然告げられたはずなのに、その場にいる者の多くは、ようやく当然の結末が来たという顔をしていた。


 アエミリアは紙を持ったまま、深紅の衣装を見た。


 その色だけが、白くなった広間の中で燃えていた。


 花嫁のために選ばれた布は、花嫁ではない女を美しく包み、花嫁になるはずだった女を、誰より見苦しく立たせていた。

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