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第53話

 クレーフェ邸の庭には、湿った土の匂いが残っていた。


 昼の間に乾いた敷石も、暮れかけた光の中では色を失い、植え込みの下にある濡れた土と、見分けにくくなっていた。

 玄関の扉が開くと、そこから漏れた明かりが道を横切り、二人の足元まで伸びた。


 エスネエーレは、その手前で立ち止まった。


「お茶を、一杯召し上がっていかれますか」


 ラディスラフが彼女を見た。


「よければ」


 彼女は頷き、出迎えた家令へ、庭に面した部屋へ用意するよう頼んだ。


 部屋の奥では暖炉に火が入っていた。歩いてきた頬に、その暖かさが少し重かったのか、エスネエーレは窓を細く開けてもらった。

 カーテンの裾が膨らみ、外から入った冷気が、足元を静かに通った。


 ラディスラフは、入口で足を止めていた。


 彼女が窓に近い椅子を勧めると、そこへ来て、持っていた包みを机の端へ置いた。

 紐を解くと、中から本が一冊現れた。


「お持ちくださいましたの」


「ああ。渡せるかどうかは、分からなかったが」


「今日は、読んでいらしたのでしょうね」


 ラディスラフが顔を上げた。


「読んだ」


 彼女は表紙を見た。


 よく知る旅の本だった。

 塔にいた頃に読んだものより、少し小さく作られていたが、題は同じだった。


「新しい刷りだそうだ。橋のところが、やはり長い」


「あそこが、よいところですのに」


「そう言われるかと思って、もう一度読んだ」


「それでも、お分かりにならなかったのですか」


「長いと思った」


 エスネエーレは、口元へ手を添えかけた。


 その手を膝へ戻し、本を受け取った。表紙を開くと、綴じ目はまだ硬く、頁が閉じようとした。

 彼女が押さえている間に、茶が運ばれてきた。


 ラディスラフは、二人分の茶碗が置かれるのを見ていた。


 使用人が燭台へ火を移し、部屋を出ていった。

 扉が閉まると、廊下に続いていた足音も遠くなり、暖炉で薪のはぜる音が聞こえた。


「ここまで、お付き合いくださらなくてもよろしかったのに」


 エスネエーレが言った。


「まだ、話したかった」


 彼女は本を閉じた。


「法院では、お話を伺いました」


「ああ」


「お詫びでしたら、もう」


「詫びたいことは山ほどある」


 ラディスラフは、膝へ置いた手をほどいた。


「だが、今日は、頼みたいこともある」


 エスネエーレの指が、表紙の角へ掛かった。


「もう一度、話す時間をもらえないか」


 窓の外で、枝が揺れた。


 敷石の上にかろうじて残っていた影が、風の通るたびに薄れた。

 エスネエーレは、その動きを少し見てから、彼へ顔を戻した。


「お可哀想にと、思っていらっしゃるのではございませんか」


 ラディスラフは、すぐには否定しなかった。


「つらかっただろうとは思う。私が何をしなかったかも、考える」


「でしたら」


「それが全部なくなるまで会いに来ないと言えば、また、来ない理由にできてしまう」


 エスネエーレは目を伏せた。


「そのように仰れば、わたくしが何も申し上げられなくなります」


「今、言ってくれた」


 彼女は顔を上げた。


 ラディスラフは笑っていなかった。彼女が本から手を離すまで、次の言葉を重ねなかった。


「昔のことを、よく覚えすぎていらっしゃるのかもしれません」


「忘れたこともある」


「よいことばかり、残っていらっしゃるのでしょう」


「本を読まずに持っていった時、お前がどういう顔をしたかは、よく覚えている」


「そのようなお顔は、しておりません」


「今の顔に、少し似ていた」


 エスネエーレは、茶碗を持ち上げた。


 湯気はもう薄かった。けれど、一口飲むにはまだ熱かったらしく、口をつけずに戻した。


「わたくしは、あの頃のままではございません」


「分かっているつもりだ」


「つもり、でございましょう」


「ああ。今、何を読んでいるかも知らない。さっき、あの角で何を見ていたのかも」


 彼女は、机の本を見た。


 しばらくしてから、広場への道しるべです、と答えた。


「行ってみたかったのか」


「ええ。もっと遠くにあるものと、思っておりました」


 エスネエーレの目が、窓の向こうへ移った。


「けれど、今日は、こちらへ帰る道だけで、覚えられなくなりそうでしたから」


 ラディスラフは頷いた。


「曲がる所が、幾つもあったからな」


「ええ」


 彼女は、今度は茶を飲んだ。


「でも、広場へは、どこを曲がるのか分かりました」


 庭の道を、灯を持った使用人が通り過ぎた。

 窓の中へ会釈をすると、その明かりは植え込みの向こうへ低く移り、建物の角で見えなくなった。


 エスネエーレは、その光を見送った。


「殿下には、こうしたお話をなさる方が、もういらっしゃるのではございませんか」


「誰のことだ?」


「お名前を、わたくしが存じ上げるはずはございません」


 ラディスラフは、茶碗へ伸ばしかけた手を止めた。


「誰かを待たせて、ここへ来たのではない」


「わたくしをお待ちになっていた、というお話でしたら」


「相手がいるのかと聞かれたから、いないと答えた」


「そのようには、お尋ねしておりません」


「では、今のは何の話だったんだ」


 彼女は、表紙の角を撫でた。


 ラディスラフは返事を待った。

 彼女が顔を上げると、困ったような、少し懐かしむような目をしていた。


「もっとお似合いになる方が、いらっしゃると申し上げたかっただけです」


「顔も知らない相手に、ずいぶん肩入れするんだな」


「殿下のためを思えば」


「その人の話をしたいのか」


「いいえ」


 返事が早かった。


 エスネエーレは、自分の声に気づくと口を閉じた。

 ラディスラフは何も言わず、ようやく茶碗を取った。


 暖炉で薪が崩れた。


 彼女はその音へ目を向け、それから、机の上へ視線を戻した。


「わたくしには、まだ、殿下に申し上げていないこともございます」


 ラディスラフは茶碗を置いた。


「生まれのことです」


 それまでより、声が低かった。


「ローエンハイム卿から、伺ったことがございます。確かなことでは、ないそうですけれど」


「聞かせてもらえるか」


 エスネエーレは、膝の上で指を重ねた。


 王家の血に関わるかもしれない、とだけ言った。

 その先を続けようとすると、言葉が出なかった。


 ラディスラフの目が、彼女の顔に留まった。


 彼も、軽く頷いて済ませることはしなかった。


「確かでないところも、そのまま聞く」


 彼女は、机へ目を落とした。


 端には、銀の万年筆があった。

 磨ききれない細い傷が、燭台の光を受けて、かすかに浮いていた。


「今日、お話ししなければいけませんか」


「今日でなくてもいい」


「いつになれば、申し上げられるか、分かりません」


「ああ」


 ラディスラフは、それ以上尋ねなかった。


 エスネエーレは万年筆を手に取った。指の当たるところだけ、銀が滑らかになっていた。

 蓋を回すと、長く使ってきた継ぎ目が、同じところでわずかに引っ掛かった。


「もし明日、お会いしたくないと申し上げたら」


「行かない」


 彼女は、蓋を取る手を止めた。


「その次の日は」


「呼ばれるまで待つ」


 庭の向こうで、扉の閉まる音がした。


 ラディスラフはそちらを見なかった。

 エスネエーレも、誰が閉めたのかを確かめようとはしなかった。


「お帰りくださいと申し上げたら、本当に、お帰りになるのですね」


「ああ」


 彼女の指が、万年筆を強く持った。


 ラディスラフは、膝の上へ手を戻した。


「今日は、もう帰った方がいいか」


「まだ、そうは申し上げておりません」


「では、もう少し、ここにいる」


 彼女は顔を上げた。


 その顔を見ても、彼は笑わなかった。自分の茶碗を持ち上げ、残っていた茶を飲んだ。エスネエーレは、ようやく万年筆の蓋を外した。


 机の引き出しから、小さな覚え書きの帳面を出した。


 最初の頁には、届けてもらう本の名が幾つかあった。受け取ったものには線が引かれている。彼女はその次の、まだ何も書かれていない頁を開いた。


 ラディスラフは、覗き込まなかった。


 ペン先を置く前に、エスネエーレは窓を見た。


 庭の道は、もう闇に沈んでいた。窓硝子には室内の火が映り、その向こうに残る枝の輪郭と、静かに重なっている。風に押されたカーテンが、机の端へ触れて離れた。


「では、明日の午後、お時間をいただけますか」


 ラディスラフの手が、茶碗から離れた。


「二時なら、来られる」


「では、二時に」


 彼女は明日の日付を書いた。


 その下へ時刻を置くと、ペン先から出たインクが、まだ濡れたまま細く光った。

 すぐに帳面を閉じることはできなかった。


「お天気がよろしければ、広場まで参りたいと思います」


「ああ」


「雨でしたら、こちらで。本のお話を」


「橋のところからだな」


「まだ、お分かりになっていらっしゃらないようですから」


 ラディスラフの口元が、少し緩んだ。


 エスネエーレは、そこから目を逸らし、書いた時刻を確かめた。


「今度は、誰の許可も得ておりません」


 彼は、開いた帳面を見た。


「ここへ来ればいいか」


「正面から、いらしてくださいませ」


「分かった」


 エスネエーレは、万年筆へ蓋をした。


 銀は、もう冷たくなかった。

 帳面を閉じかけ、まだ乾いていないことを思い出して、手を離した。


「明日の二時に、必ず」


 彼女は頷いた。

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