第54話
朝刊を売る声が、法院通りの角を曲がってきた。
昨日は人の肩に隠れていた店先まで、今朝はよく見えた。
石畳の窪みに残った水を、箒の先が細く引いている。
その筋を避けながら、アエミリアは机の片側を持ち上げた。
「先生、もう少し、そちらへ」
「お前の方が出すぎてる」
「先生が斜めに歩くからです」
「道まで俺に合わせろとは言ってない。お前くらい合わせろ」
角にいた靴屋が、戸口から足を引っ込めてくれた。
机を通し終えると、いつもの場所を顎で示した。
「昨日は、ずいぶんいい所へ店を出したそうだな」
「家賃が高くつきそうだったんで、戻ってきた」
ヴァンフリートが手を下ろすと、机の脚が石へ当たった。
アエミリアは天板を押し、揺れを確かめた。
昨日、法院の正門前で何度も挟み直した木片が、ここでは一度で収まった。
鞄を置くと、革の底についた細かな砂が、朝日に白くこぼれた。
ヨストが、新聞を二つ折りにして持ってきた。
「もう売ってるのか」
「朝刊だからな」
「事実を確かめる時も、その速さで働いてほしいもんだ」
アエミリアが受け取って開いた。
ラディスラフが王位を断った事情には、大きな活字が使われていた。
その脇に、事件当時、エスネエーレを愛していたという証言が引かれている。
法院が記録の訂正を命じたことは、もう少し下にあった。
塔の扉を開けた事実は残るが、暗殺の共謀は証明されず、十年間続けられた制限も停止されたと、そこには記されていた。
彼女は、その箇所を指で辿った。
「こちらを、先に読んでほしいですね」
「王冠を捨てた話の方が売れるんだろ。外出許可を要しない、じゃ、立ち読みの客も帰る」
「陛下のお詫びも、大きく出ています」
「そりゃ珍しい物を見たんだ。次に拝めるまで、新聞屋も待ってられんだろうさ」
アエミリアは、もう一度記事へ目を戻した。
エスネエーレの名は、疑惑を述べる行だけにあるのではなかった。
本人が訂正を求めたこと、その申立てについて判断が出たことが、続けて書かれていた。
新聞を畳み、鞄の上へ置いた。
「返却の受け取りを済ませてきます。手紙の包みは、その後でクレーフェ家へ届けてもらいます」
「ああ。封は本人に開けさせろ」
「そう伝えてあります」
彼女が法院へ向かうと、ヴァンフリートはインク壺を出した。
蓋の縁に乾いた黒いものがこびりついていた。
爪で落とそうとしてやめ、布を探した。ヨストが、卓上の紙を少し端へ寄せた。
「少し、話しておきたいことがある」
「まだ書類が出るのか」
「書類ではない」
ヴァンフリートは布を引き抜き、蓋を拭いた。
ヨストは、アエミリアが石段を上がっていくのを見届けてから、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「若い頃、エスネエーレの母親を想っていた」
ヴァンフリートの手が止まった。
ヨストは、通りを見ていた。
朝の荷車が店の前へ着き、荷を受け取る男が、御者に何か文句を言っている。
御者は降りずに言い返し、それから二人とも、同じ荷へ手を掛けた。
「向こうは」
「一度も伝えなかった。私の方だけの話だ」
「長いことしまい込んだ割に、短いな」
「ああ」
ヨストは、口元を少し緩めた。
「まともに話せる時ほど、別の用事を思い出したものだ。次に会えばと思っていた」
ヴァンフリートは蓋を机へ置いた。
「それで、娘の事件に首を突っ込んだ」
「最初に目を向けた理由の一つにはなった」
「俺には黙ってな」
「言えば、手伝わなかったか」
「人助けと、失恋の後始末じゃ、料金が違う」
「お前は、まだ金を取れる身分ではなかった」
「だから損をした」
ヨストは笑いかけたが、声にはしなかった。
卓上には、アエミリアの畳んだ新聞があった。
風が端から入り、折り目の奥を膨らませていた。ヨストはそこへ指を置いた。
「十年前に調査を止めた後も、彼女の暮らしは続いた」
ヴァンフリートは、もう蓋を拭かなかった。
「私が書類をしまって帰った翌朝にも、あの娘は外へ出られなかった。母親を知っていたかどうかで、その事実は変わらない」
「だから捨てなかった」
「していないことまで背負わせたまま、私だけ終わったことにするわけにはいかなかった」
ヨストの指が、新聞から離れた。
「持っていれば、それでよかったわけでもないがな」
通りの反対側で、荷車が動き出した。
車輪の跡から水が滲み、横切ろうとしていた女が、裾を少し持ち上げた。
ヴァンフリートは、ヨストを見た。
「あの女に、母親の話はしたのか」
「まだだ」
「聞かれたら話してやれ。お前が言い損ねた台詞じゃなく、母親が何を喋ってたかをな」
ヨストは、しばらく答えなかった。
やがて、卓上の新聞をきちんと畳み直した。
「覚えていることは、ある」
「なら、それを話せ。お前の若い頃よりは、聞きたいだろ」
ヨストは頷いた。
アエミリアが正門から出てきた時には、二人とも黙っていた。
彼女は受取書を鞄へ収め、ヨストへ、手紙の返却が済んだことを伝えた。
「御本人へ届けてもらえます」
「そうか」
ヨストは立った。
外套の裾を払ってから、机を一度見下ろした。
インク壺も、紙を押さえる石も、いつもの場所へ戻っていた。
ヨストが去った後、しばらく客という客は来なかった。
昨日の話を尋ねる者は後を絶たなかった。
国王は本当に椅子へ座ったのか、頭を下げたのかと、新聞を持った男が聞きに来た。
「俺を証人にするな。当事者だ」
「だから聞いているんだろう」
「だったら昨日来い」
男が去ると、アエミリアは、次に来た女へ椅子を勧めた。
女は、座る前に新聞を見た。
「王家の御用で、お忙しいと伺いまして」
「そっちは済んだ。次はお前だ」
「でも、大した話ではないんです。お金にも、あまり」
「聞く前に値切るな。用件を言え」
女は、膝へ布袋を置いた。
「鍋を、返してもらいたいんです」
ヴァンフリートは椅子を寄せた。
「貸したのか」
「ええ。銅の、大きいのです。それで煮て売っているものですから、ないと困りまして」
アエミリアは新しい紙を出した。
「いつ、どなたにお貸しになりましたか」
女は、布袋から一枚の折れた紙を取り出した。
日付だけは忘れないように書いておいたという。
アエミリアが受け取ると、女はその端を押さえ、これは借りた人の書いたものではなく、自分の覚えだと付け加えた。
「分かりました。その時、ほかにどなたかいらっしゃいましたか」
ヴァンフリートは、畳んだ新聞へ石を載せた。
王冠を捨てたという大きな文字の半分が、その下へ隠れた。
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