第50話
クレーフェ家の家令が近づいたのは、ラディスラフが記録へ名を書いている時だった。
エスネエーレの椅子の脇で身を屈め、帰館の時刻が近づいていると告げた。低く抑えた声だったが、ヴァンフリートにも聞こえた。
「もう帰るのか」
「本日のお申し入れでは、そのようになっておりますので」
家令は答えた。
エスネエーレが、法院の門を見上げた。高い窓には空が映っていたが、そこから時刻は分からなかった。彼女は家令へ顔を戻した。
「延ばしていただくことは、できますか」
「改めて、お伺いを立てれば」
「まだ、こちらにいたいのです」
「承知いたしました」
家令が退こうとすると、ヴァンフリートが呼び止めた。
「どこへ伺う」
「王宮へ、でございます」
ラディスラフの筆が止まった。
名前の最後まで書いた後だった。彼は筆を置き、家令を見た。
ヴァンフリートは、その前へ手を出した。
「お前が聞くのをやめたことは分かった。だが、お前が黙っていたからって、外へ出る許しを出す人間まで、いなくなったわけじゃない」
ラディスラフは、手元の記録へ目を落とした。
ヴァンフリートが、官房の役人へ向き直った。
「今日、帰る時刻まで決めてるのは、十年前に死んだ連中じゃないな」
「現在の処遇については、定められた手順に従っております」
「その手順を続けると決めたのは」
役人は、上席裁定官を見た。
今度は裁定官も、役人を見ていた。
「御本人を保護するため、当初から設けられた措置です」
「当初は、一時の保護だったと、今聞いた」
「その点は、従来の説明と相違ございません」
アエミリアは、机の端に置かれた外出の書面を見た。
家令が朝、ヨストへ渡したものだった。
今日の日付と行き先、その下に帰る時刻があった。エスネエーレがまだ聞きたいと思っている話の途中でも、その数字は変わらなかった。
ヴァンフリートは、書面から手を離した。
「なら、誰が『一時』を十年にした」
「余だ」
返事は、官房の役人の背後から来た。
男が振り向くより早く、人垣が崩れた。
前へ押し出された者が石段に足を取られ、隣の男へしがみついた。落ちた帽子を拾おうとした手のすぐ脇を、近衛兵の長靴が通った。
「国王陛下の御成である。道を開けよ」
声が法院の壁に当たり、通りへ返った。
窓から見下ろしていた顔が引っ込み、正門の奥で足音が重なった。
院務官は、誰かに何かを命じかけたまま石段を下り、先ほどまで机の前に立っていた王宮の衛兵も、慌てて姿勢を正した。
人々の肩の間から、王の馬車が見えた。
扉はまだ開いていた。乗降のために置かれた踏み台を、従者が取り込むのも忘れている。
コンスタンティンは、既に人垣の内側へ入っていた。
その前から、帽子と頭が次々に下がった。
アエミリアも立ち上がり、机へ手をついた。押さえていた紙が風に持ち上がったが、拾ってよいのか、一瞬分からなくなった。
ヨストが、横から押さえた。
「紙を見ていなさい」
小さく言われ、彼女はようやく手を戻した。
ヴァンフリートは、王を見ていた。
「国王陛下様のお出ましか。よく、その玉体を俺の机まで運ぶ気になったな」
近衛兵の一人が顔を上げた。
コンスタンティンは、片手で留めた。
「欠席裁判をされては困るからな」
「出席しても、気分はよくならんぞ」
「来る前から、よくはない」
王は机の前で止まった。
ラディスラフが立っていた。二人の目が合い、ラディスラフがわずかに頭を下げた。
コンスタンティンは、その先にいるエスネエーレへ視線を移した。
彼女も立とうとしていた。
膝にあった布を片手で押さえ、もう一方の手を椅子へ掛けている。
王は、上がりかけたその身体を見て、足を止めた。
「そのままでよい」
エスネエーレは、すぐには座り直せなかった。
家令が傍らへ寄ると、ようやく手の力を緩めた。
王は彼女が落ち着くまで待ち、それから官房の役人へ顔を向けた。
「陛下。御説明は、私どもから申し上げるつもりで」
「余が認めた処遇だ。余の署名を、お前が弁じることはない」
院務官が進み出た。
「院内に、お部屋を用意いたします」
コンスタンティンは、開いた正門を見た。
その奥には職員が並び始めていた。
王が一歩そちらへ向かえば、すぐ案内できるように、誰もが半身を引いていた。
「余のしたことは、ここまで聞こえていたのだろう」
院務官が頭を下げた。
「では、余の返事も、ここで聞いてもらおう」
ヴァンフリートが椅子を引いた。
従者が別の椅子を取り寄せようとしたが、王は、既に背へ手を掛けていた。
「これでよい」
腰を下ろすと、低い机の向こうへ、通りに立つ人々の腹や胸が並んだ。
コンスタンティンは一度だけその高さを確かめるように顔を上げ、書記官へ目を向けた。
「筆を止めるな」
書記官が座り直した。
王のすぐ後ろに立っていた近衛兵は、上席裁定官と短く言葉を交わし、机から離れた。
人々も少しずつ顔を上げたが、先ほどまでの場所へ戻ろうとする者はいなかった。
ヨストが、鞄の底から命令の写しを取り出した。
クレーフェ家へ届いたものを、年を追って確かめてあった。
紐を解くと、折り癖のついた紙が少し膨らんだ。
ヴァンフリートは、その束を王の前へ置いた。
「お前が続けたというのは、これだな」
「そうだ」
「その前に、一つ確かめる。ジークムントを殺す相談を、事件の前から知っていたか」
「知らぬ」
「ローベルが、お前を次の後継に備えていたことは」
「聞かされていない。王族として政務を学び、いずれジークムントを助けるためだと説明された」
コンスタンティンは、ラディスラフを見た。
「呼ばれた時には、ジークムントは死に、ラディスラフは後を継がぬと言っていた。余は、その後を引き受けた。いや、そう決まってたのかもしれぬな」
「何も知らなかったから、何もしてないとは言わないんだな」
「知らなかったことまで、知っていたことにはさせぬ。だが、王になってからの命令を、ローベルが勝手に出したとも言わぬ」
ヴァンフリートは頷いた。
「暗殺はお前の罪じゃない。予備にされたこともお前の罪じゃない」
束の上へ手を置いた。
「だが、これはお前だ」
「ああ」
アエミリアは、初めの一枚を抜いた。
事件の後、王が替わって間もない頃の命令だった。
エスネエーレの居所を定め、その身柄を王宮の保護下に置く。
出入りと面会を制限する旨が、その後に続いていた。
「これを出した時には、刑事法院へ送れという声が、まだ残っていた」
コンスタンティンは言った。
「余が庇護を解けば、疑いが晴れたから出したとは受け取られぬ。逃がしたと叫ぶ者も、王太子の仇だと考える者もいた」
ヨストが、卓上の紙へ目を落とした。
「ラディスラフ殿下派閥の蠢動も抑える必要があった」
王は目を伏せた。
「王宮の管理下にある者へ手を出せば、余への反抗になる。そうして抑えなければならなかった。自由にすれば、すべてがよくなるような時ではなかったのだ」
「そこは争ってない」
ヴァンフリートは答えた。
「この紙で、あいつは生き延びた」
「ならば」
「まだ一枚目だ。だが残りも、お前が書いた」
王は、続けかけた言葉を止めた。
アエミリアが二枚目を開いた。
初めのものより、本人の安全についての説明が短かった。
代わりに、王国の静穏を損なわぬよう、従来の扱いを続けるとあった。
その前提となる報告では、共謀を認めるに足る資料は得られていなかった。
正式な使者はおらず、実行犯との接触も見つかっていない。
王宮側の通路についても、エスネエーレの知らぬところで手が加えられた可能性が残っていた。
「陛下」
シグルーンが尋ねた。
「この時には、処遇を改めることを御検討になったのですね」
「検討はした」
「それでも、続けると」
「疑いが弱まれば、次には、なぜその疑いだけで一人を閉じ込めたのかが問われる。通路を調べ直せば、誰が王太子の死を用意し、その後、誰の手で余が王になったのかという話になる」
人垣の中で、誰かが小さく声を漏らした。
近衛兵が顔を向けると、王は机から目を離さずに言った。
「構うな」
兵は前へ戻った。
コンスタンティンは、二枚目の紙を押さえた。
「王位が揺らげば、余一人の損では済まぬ。支持する家が分かれれば、領地も兵も動く。余には、ここへ来ていない者たちの暮らしを守る務めもある」
「だから、ここにいる女を閉じ込めた」
「ほかに何もなかったかと言われれば、あったのだろう。だが、その時の余には、国を再び争いへ戻さぬことが先だった」
「兵を動かす気のある奴より、動けない女を見張る方が、楽だからな」
「楽だったとは言っていない」
王の声が、初めて強くなった。
通りの端で、馬が首を振った。轡の鳴る音が、人々の黙った後へ残った。
「この者の暮らしを、どうでもよいと思ったことはない。住まいを整え、必要なものを与え、命を守らせた。余が一人を苦しめるために、毎年これを書いたかのようには言うな」
ヴァンフリートは、王を見ていた。
「苦しめるつもりがなけりゃ、苦しまないのか」
コンスタンティンの指が、紙の端で止まった。
「それなら、王宮の連中は皆善人で済む。あいつが勝手に十年、辛がっただけだからな」
王はエスネエーレを見た。
彼女は膝へ手を重ねていた。
叱られた者のように俯いてはいなかったが、王と目が合うと、何かを答えなければならないように唇を開いた。
コンスタンティンは、その動きを見て、先に目を戻した。
「……そういうことを言っているのではない」
「なら、命を守ったという話で、ほかを全部済ませるな」
アエミリアは、条件付き解放案を出した。
コンスタンティンは、表題を見ると、小さく頷いた。
「ローベルが死んだ後、この件を収めようとした」
「暗殺を助けたという扱いは残してな」
「記録を争わず、居所についての条件を受け入れれば、制限を緩める。少なくとも、従来の暮らしからは出せる」
王は、エスネエーレへ顔を向けた。
「そなたにも、その方がよいと考えた」
彼女は、すぐには答えなかった。
ヴァンフリートが紙を置いた。
「よいかどうかを聞かれたから、あいつは俺のところへ来た」
コンスタンティンの視線が戻った。
「俺たちの照会を、古い記録の回収に使ったな」
「所在の分からなくなっていたものを、官房へ集めるためでもあった」
「集めた資料は、読んだんだな」
「……ああ。驚かされることもあったがな」
「即位の経緯へ届いたら、閲覧を止めた」
「余が命じた」
アエミリアは、停止の通知を解放案の隣へ置いた。
王の目が、彼女の手元を追った。紙を押さえる指には、朝からのインクが乾いていた。
「これを出せば、お前たちは止まると思った。……余も、もうしばらくは決めずに済むとな」
「残念だったな。俺はそこまで利口じゃない」
王は、わずかに口元を動かした。
「使いの者に任せておけば、余が決めたことまで、使いの者の不手際で終わりかねぬ」
官房の役人が、後ろで顔を伏せた。
ヴァンフリートは、その男を見なかった。
アエミリアから、最後の更新を受け取った。
文は短かった。従来の命令を引き続き適用する。
その末尾に、コンスタンティンの署名があった。
「最後に署名した時、エスネエーレがジークムントを殺そうとした女だと信じていたか」
王は、紙を見た。
署名の上には、これまでと同じ扱いを続けるという文があるだけだった。
その短さを、今、初めて測るように、指が余白を滑った。
官房の役人が口を開きかけた。
コンスタンティンは、振り向かずに手を上げた。
「……信じていなかった」
人々の間へ、声が広がった。
前の者が後ろを制し、聞こえなかった者が、何と言ったのだと尋ねた。
国王の姿を見ようと身を伸ばしていた男が、今度はエスネエーレの座る方へ目を向けた。
書記官は筆を止めなかった。
「最初は、あいつを生かすために閉じ込めた」
ヴァンフリートが言った。
「最後には、お前の王国を生かすために閉じ込めた」
コンスタンティンは、長く黙っていた。
それから、紙を机へ戻した。
「それは、認めねばならぬ」
声は、先ほどより低かった。
「本人を守るためという理由を、本人を出さぬために使い続けた」
王の後ろで、院務官が身じろぎをした。誰かへ顔を向けかけ、向ける先を決められぬまま、また前を見た。
コンスタンティンは、その動きにも振り向かなかった。




