第48話
ラディスラフは、椅子の背へ手を置いた。
腰を下ろすと、エスネエーレの横顔が、思っていたより近くにあった。外套の襟に触れる髪へ薄い日が差し、風が通るたびに、銀とも紫ともつかない色が揺れた。
彼は手袋を抜き、膝の上へ重ねた。
「殿下。こうしたお話は、しかるべき場所で」
官房の役人が言いかけた。
「私が王にならなかった理由を、聞いていたのではないのか」
役人は、上席裁定官へ目を向けた。裁定官は書記官の用紙を確かめていたが、助けを求められると、ただ顔を上げた。
ヴァンフリートが椅子を寄せた。
「王になりたかったか」
「なりたかった」
返事が早かったので、アエミリアは、まだ次の言葉が続くように思った。
ラディスラフは、言い直さなかった。
「兄が生きている頃からか」
「ああ」
「自分の方が向いてると思った?」
「そう思いたかった」
人垣の向こうで、馬車が一台、道を曲がった。
車輪が轍に沈むと、御者の身体が大きく傾き、聞き耳を立てていた下男が慌てて馬の脇へ回った。
ラディスラフは、その騒ぎが通り過ぎるのを待った。
「兄は、人の話をよく聞いた。分からないことを、そのままにはしなかった。私が何かを言えば、よく気づいたと褒めてくれることもあった」
「いい兄貴じゃないか」
「その後で、私が答えられなくなるまで尋ねた」
「褒めるだけなら、誰でもできるからな。余計なところまで優秀だったわけだ」
ラディスラフの口元が、わずかに動いた。
「私に任せれば、もっと早くできると思ったこともある。兄ほど人を怒らせずに済むとも思っていた」
「やってみたか」
「意見は言った。兄に、人の暮らしを話している時まで、私を負かそうとするなと言われた」
彼は手袋の片方を裏返した。縫い目に沿って指を滑らせ、また元へ戻した。
「そんなつもりではないと、言い返した」
「違ったのか」
「それだけではなかった。だが、なかったとは言えない」
ヴァンフリートは、少し身を引いた。
「兄貴がいつも間違ってりゃ、楽だったな」
「ああ」
その返事の後で、ラディスラフは初めて、エスネエーレの方を見た。
「塔では、兄の話をしなくてよかった」
彼女の手が、膝の布の上で静かになった。
「初めて行ったのは、子供の頃だ。入ったことのない場所へ行ってみたかった。そこに人が住んでいるなんて思いもしなかった」
次には、本を持っていったという。
部屋で読むほかに楽しみの少ない娘へ、それなら自分にもできると思った。ところが、次に訪ねると、前に持ってきた本をどう思ったかと聞かれた。
「私は、読んでいなかった」
「本を運んだだけで、感心してもらえると思ったか」
「そうだな」
ラディスラフは答え、それから少し目を伏せた。
「思っていたかもしれない」
エスネエーレの唇が動いたが、声にはならなかった。
「それで、自分でも読むようになった。話についていけなければ、持っていく物がなくなる」
アエミリアは、彼女の部屋にあった本を思い出した。背を直したものも、頁の端が柔らかくなったものも、窓から差す光の中へ、同じように並べられていた。
「王になれば、塔から出せると思っていた」
ラディスラフは言った。
「子供には、王が許せば何でも変えられるように見えたものだ」
「そのためだけに、王位をお望みだったのですか」
シグルーンが尋ねた。
ラディスラフは、彼女へ向き直った。
「違う」
「御自分で国を治めたいというお気持ちも?」
「あった。兄にできることが、私にはできないと決められるのが嫌だった。私を頼りにする者が欲しかった」
言い終えると、彼は手袋から手を離した。
「彼女を外へ連れ出したかった。それをするのが、私でありたかったんだ」
シグルーンは、紙へ目を戻した。
ヴァンフリートが尋ねた。
「兄が死ねばいいと思ったことは」
「ない」
ラディスラフの肩が動いた。
「自分が先に生まれていれば、と考えたことはある。だが、兄を葬って王になりたいと思ったことはない」
彼の目は、卓上の書類へ向いていた。ジークムントの名が記された紙は、もうほかの写しの下に収められていた。
「何か一つでも、私に任せてよかったと言わせたかった。兄が生きているうちに」
書記官が、短く筆を止めた。
ラディスラフは、その手元を見なかった。
王妃宮の書状を、ヨストが開いた。
ラディスラフは、差し出された紙へ目を落とすと、元の侍従へ小さく頷いた。
「条件は、その者から聞いた。その後、母にも確かめた」
「何を求められた」
ヴァンフリートが尋ねた。
「エスネエーレを刑事法院へ送ることに反対しない。王になった後も、彼女を助けるために権限を使わない」
「死刑になってもか」
「そう尋ねた」
ラディスラフの声が低くなった。
「それでもだと、母は答えた。事件を調べ直させることも、認めないと」
エスネエーレが、ゆっくり顔を上げた。
ラディスラフは、彼女を見ないまま続けた。
「女一人のために、国を継ぐ務めを捨てるのかと言われた」
「国を継がせる支度の割に、女一人を死なせる条項が多いな」
ヴァンフリートは、書状を机へ戻した。
「お前は、何と答えた」
「だったら王になる価値はない、と」
人垣の奥で、誰かが聞き返した。すぐそばの者が、声を落として答えていた。
エスネエーレは、そのどちらも見なかった。
「惜しくなかったか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「惜しかった」
ラディスラフは答えた。
「欲しくないなど、嘘でも言えない。だが……」
彼は、自分の前に置かれた手袋を見た。
「愛していた。誰よりも、なによりも。彼女が死んでも構わないとは、言えなかった」
風が、エスネエーレの外套を椅子の脇へ押した。裾が冷たい石に触れたが、彼女は引き上げなかった。
「わたくしが……」
声が細かった。
ラディスラフが顔を向けた。
「わたくしが、いなければ」
「断ったのは私だ」
彼は言った。
「俺の意思だ」
エスネエーレは、何か答えようとして、口を閉じた。その後にも唇が動いていた。
「お前が、いなかったことにする必要はない」
ヴァンフリートが言った。
「条件を出した奴と、返事をした奴がいる。二人分まとめて、お前が引き受けるな」
ラディスラフは、エスネエーレを見ていた。
「俺の想いまで、なかったことにしたくない」
彼女の目が、ようやく彼の顔に留まった。
十年の間に変わったところを、そこから一つずつ見つけるような間だった。ラディスラフの方が先に視線を下げたが、エスネエーレは、しばらく顔を上げていた。
アエミリアは屈み、石に触れていた外套の裾を椅子へ戻した。
布の裏には、わずかに湿りが移っていた。




