第46話
マルタが椅子を離れると、ヴァンフリートは、私信の抜き書きをエスネエーレの方へ向けた。
「使者が口にしたのは、これだな」
「はい」
「だから、本物だと思った」
「殿下から頂いた手紙にしか、ない言葉でしたから」
人垣の前で書いていた男が、筆を浮かせた。
エスネエーレは、その手元を見てから、ヴァンフリートへ顔を戻した。
「何を頼まれた」
「ラディスラフ殿下が危ないと。古い通路をお使いになれるよう、塔の鍵を開けておくようにと言われました」
「ジークムントを殺す話は?」
「聞いておりません」
「兵士を通すとも?」
「いいえ」
「開けた後、どうした」
「部屋へ戻りました。殿下がおいでになるものと、思っておりましたので」
その先は、少し間が空いた。
通りの向こうで、店の男が戸板を壁へ立て直していた。傾いた板が石に擦れ、誰かが手を貸した。二人で持ち上げると、音はすぐにやんだ。
「ラディスラフは来たか」
「いいえ」
アエミリアは、ラディスラフの回答を出した。
手紙は自分が書いたものだと認めている。だが、その晩、使者を送ってはいない。鍵を開けるよう、頼んでもいない。
ヨストが本人へ確かめた経緯を述べると、人々の視線は、回答から私信の抜き書きへ移った。
同じ言葉が、二枚の紙の間で、違うものになっていた。
「手紙は、本物だった」
ヴァンフリートが言った。
「だから、使えた。偽の手紙を信じ込ませるより、本物から言葉を一つ盗む方が、よほど手間が省ける」
彼は、マルタの座っていた椅子を少し退けた。
その向こうに、エスネエーレがいた。
「兵士には金を払った。王宮側の扉は、修繕ということにして開けさせた。この女には、ラディスラフを助けろと言った」
「しかし、鍵を開けたのは――」
「わたくしです」
エスネエーレが答えた。
ヴァンフリートより先だった。
声を出した男が、彼女を見た。エスネエーレは、膝に置いた布から手を離し、机の上の紙へ目を向けた。
「鍵を開けたことを、なかったことにしていただきたいのではございません」
彼女は、もう一度、男の方を見た。
「けれど、殺すために開けたとは、残さないでください」
ヴァンフリートは口を挟まなかった。
男は隣の者へ顔を向けたが、その者も返事を持っていなかった。やがて二人とも、机の上へ目を落とした。
アエミリアは、彼女の言葉を書き留めた。
エスネエーレは、まだ、そこに立つ人々を見ていた。
門の影が短くなり、朝には濡れていた石の縁が白く乾いてきた。
ヴァンフリートは、実行犯の記録を、王妃宮の書状と並べた。
「王妃が、死が必要ならそうしろと言った。ローベルが実行の支度をした。兵士が殺した。それを、この女がラディスラフを好いていたという話で片づけるな」
「では、なぜ今の陛下がお立ちになったのです」
人垣から問われると、彼は、コンスタンティンの政務教育を手配した記録を出した。
王太子の生前から、ローベルは従兄弟にも仕事を覚えさせ、元老院へ紹介していた。
「弟が言うことを聞かなかった時のために、次を用意していた。俺は、そう考えてる」
「予備の後継者だったというのは、あなたの推測です。それに、教育を受けた陛下御自身が、暗殺を知っていたことにはなりません」
シグルーンが言った。
「ああ。だから、その後、誰が今の王を呼んだのか、引継ぎの記録を見せろと頼んだ」
アエミリアは、閲覧を止める通知を置いた。
「そこで、これだ。終わる日も書いてない整理らしい」
その時、人垣の外で馬の蹄が止まった。
「これ以上、続けることは認められない」
王宮の衛兵が、人々の間へ入ってきた。その後ろから、官房の役人が現れた。
役人は机へ来るより先に、石段の上の院務官を見た。
院務官が下りてきた。互いに名乗る必要のない、短い挨拶だった。
「連絡を受けて参りました」
「こちらでも、対応を協議していたところです」
ヴァンフリートが椅子の背へ手を掛けた。
「早いな。記録を出せと頼んだ時も、その足で来てくれりゃ助かったんだがな」
「王家に関わる事柄を、無許可で人前へ出していると聞いた」
「ああ。机を置く許しも取ってない。法院ってのはケチだよなあ」
「戯れ言で済むことではない」
「なら、反論しろ。席は作れる」
彼が指した椅子へ、役人は座らなかった。
ヨストへ停止を求める封書を渡すと、院務官が、その横から口を開いた。
「皆様、一度お引き取りを。申立ては、官房との調整を経て、改めて」
「いつになる」
「今ここで、日を決めることはできません」
「そこだけは、揃って上手だな」
役人が書類へ手を伸ばした。
「文書はこちらでお預かりする」
アエミリアは包みを押さえた。
「どれが何の写しか、まだ御覧になっていません」
「確認は、こちらで行う」
衛兵が近づくと、見物人が後ろへ下がった。広くなった隙間に、エスネエーレの椅子だけが残された。
ヴァンフリートが、机と衛兵の間へ入った。
「原本を見せなくなった次は、写しを回収か。整理が進んでるな」
シグルーンも立った。
「こちらが渡さないと申し上げた場合、どうなさるおつもりですか」
「アイスベルク殿、あなたのお立場を」
「お尋ねしているのは、そちらのお立場です。預かるというのは、拒める御依頼ですか」
役人が衛兵へ目配せをした。
その手が机の縁へ掛かった時、背後から声が落ちた。
「離せ」
正門に、上席裁定官が立っていた。
外套を着ていなかった。白い袖口を冷たい風へ晒したまま、石段を下りてきた。
「二度、言わせるのか」
衛兵の指が離れた。
院務官が、裁定官の前へ出た。
「王宮から停止の要請が参っております。私設の裁判を認めるわけには」
「認めていない」
裁定官はヴァンフリートを見た。
「机を運び込めば、法院が一つ増えると思ったか」
「建てる金がないんでな」
「お前に裁定をさせる気はない」
そう言ってから、官房の役人へ向き直った。
「人を連れ出し、文書を取り上げる権限は、何による」
「王家の内事に関わります。陛下の御威光にも――」
「ここが、どこか分かっているな」
役人は口を閉じた。
「王宮の衛兵を連れてきたからといって、法院へ差し出される書類を持ち去れると思うな」
「まだ受理されていないと伺っております」
裁定官の目が院務官へ移った。
「その説明をしたのは、誰だ」
「私です。まず官房との協議が必要と」
「受け取る前に、申立てをされる側へ見せるのか」
「従来、王宮に関わる案件は、内々の調整を」
「王宮との連絡を任せている。法院が何を受け取るかまで、向こうへ決めてもらう役目ではない」
院務官は黙った。
その後ろにいた職員が、少し位置を変えた。官房の役人との間を空け、裁定官の声が聞こえる方へ寄った。
裁定官は、エスネエーレへ尋ねた。
「申立ては、あなたの御意思ですか」
「はい。わたくしから、お願いいたしました」
彼女はヴァンフリートを見ずに答えた。
ヨストが申立てと委任の書面を渡すと、裁定官は受け取った。
「今日、誰が何を話したかも残しておく。書記官を呼べ」
「それでは、この騒ぎを――」
「騒ぎについても残す。勝手に机を置いたことも、衛兵を連れてきたこともだ」
職員が門の中へ走った。
法院の門衛たちは、命じられると、王宮の衛兵を机から離した。剣は抜かれなかった。けれど、誰の命令で誰が動くかは、さっきまでとは違っていた。
「役所にしては、よく働いた。派閥争いも時には役に立つもんだ」
ヴァンフリートが言うと、裁定官は振り向いた。
「お前への許可は、まだ出していない」
「ああ。だから許可が出るまで待ってやる。黙って待つとは言ってないぞ?」




