第45話
買い入れを扱っていた書記は、王太子の指示を読み上げる途中で、一度、正門へ目を向けた。
役目も契約も、王妃の口添えだけでは通らなくなる。申し入れを退けられた家の名が出るたびに、門を通る職員の歩みが鈍った。
「長年の奉仕を御考慮いただきたいと、重ねて申し上げました」
「何年納めたかじゃなく、何をいくらで納めるかを比べろ、と言われた」
「はい」
「役目の方も同じだな。親が何をしていたかより、本人が何をできるか」
書記は頷いた。
ヴァンフリートは、任用の控えを指で押さえた。
「王妃の一族は、王太子が王になれば、座る場所がなくなるところだった」
「全員ですか」
シグルーンが紙から顔を上げた。
「この指示なら、働ける方は残れます。一族全員の仕事を、お調べになったのですか」
「そこまでは調べてない」
「では、広げすぎです」
「ああ。訂正する。働ける奴は残る。困るのは、それ以外だ」
人垣の前の方で、笑いが起きた。
ヴァンフリートは、笑った男を見た後、シグルーンへ顔を戻した。
「それなら結構です」
「王妃の推薦だけでは、役目も契約も守れなくなる。そこは間違いないな」
最後の問いを向けられると、書記は、今度は門を見ずに答えた。
「そのことで、反対の申し入れが出ました」
アエミリアが訂正を書き込む間に、正門へ院務官が現れた。
王宮との連絡を取り仕切る男だった。
職員から耳打ちを受けると、一人を脇門へ向かわせ、自分は石段の上に残った。
その視線の先へ、クレーフェ家の馬車が着いた。
家令が扉を開けても、エスネエーレはすぐには降りなかった。
車内の暗がりから、机のある方を見ていた。
朝のうちにできた水たまりへ車輪の影が落ち、人々が動くたびに、その上を別の影が横切った。
アエミリアが迎えに行くと、彼女は手を差し出した。
濡れたところを跨いだ拍子に、外套の襟元から、銀に近い薄紫の髪が覗いた。見物人の目が顔へ集まった。
「鍵を開けた女か」
ヴァンフリートが、声のした方を見た。
「ああ。本人が認めてる。そこから先を聞け」
エスネエーレは歩みを止めなかった。
家令がヨストへ外出の書面を渡す間に、アエミリアは椅子を引いた。
「お楽しみ、というのは、こちらでございますか」
エスネエーレが尋ねた。
「見晴らしはいいだろう?」
彼女は、法院の高い窓から、人垣へ目を移した。
「ええ。こちらの姿も、よく見えるでしょうね」
座ると、膝へ掛けられた布を自分の手で整えた。アエミリアが少し人垣に背を向けるよう椅子を動かしかけたが、彼女は首を振った。
「このままで、結構です」
顔は白かった。けれど、人々の方を向いていた。
元の侍従が座ると、ヴァンフリートは、王妃宮の書状をその前へ置いた。
「ジークムントが死んだ後、王妃が王にしようとしたのは」
「ラディスラフ殿下です」
「支持を求める書状を、お前が取り次いだ」
「はい」
アエミリアは、その隣へもう一通を広げた。
エスネエーレを刑事法院へ送り、極刑に処すよう求めたものだった。日付を聞くために身を寄せていた侍従が、今度は少し背を引いた。
「暗殺の二日後だ。この申し入れも、お前が取り次いだな」
「そうです」
「その前に、本人の話を聞いたか」
「私が、お取り次ぎしたことはございません」
「なぜ鍵を開けたか。誰に頼まれたか。それも?」
「伺っておりません」
エスネエーレは、卓の向こうから自分の名を見ていた。
「お尋ねは、ありませんでした」
侍従が彼女へ顔を向けた。何か言おうとしたが、言葉を選んでいるうちに、人垣から別の声が出た。
「母君のお悲しみを、何だと思っている」
上等な外套を着た男だった。
「御子を殺されたばかりなのだぞ」
「その悲しみの大きさで、ほかの人間の首を切っていいか決めるのか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「処罰をお望みになるのは、当然だろう」
「誰を処罰するかは、尋ねてから決めろ。聞く前に首を切って、後から返事を待つつもりか」
男の顔が赤くなった。
その隣で笑いかけた者も、エスネエーレを見ると、口を閉じた。
「ローエンハイム卿」
シグルーンが紙を置いた。
「処罰を急いだことと、王太子殿下を殺させたことは別です。今の書状だけでは、そこは繋がりません」
「分かってる」
「では、相談の席にいた方のお話を」
ヴァンフリートは彼女を見た。
「帰るんじゃなかったのか」
「今帰れば、あなたの大声を聞いただけになります」
彼女は鞄を膝から下ろした。
ヨストに呼ばれ、エルザが前へ出た。
侍従が椅子を空けると、彼女はその背へ手を添えた。石段の上から、院務官が見ていた。エルザは一度だけ会釈をし、その返事を待たずに座った。
王妃がローベルを呼んだのは、王太子から改革を留めない旨の返書が届いて、幾日も経たぬ頃だったという。ヨストが返書の日付と、エルザの取り次いだ用事の記録を確かめた。相談は、事件より前だった。
「その場に、お前もいた」
「はい。陛下は、私を下がらせませんでした」
「初めは、何の話だった」
「殿下のお考えを変えていただけないかと。ローベル卿は、既に何度も申し上げたが、お変えにはならないとお答えしました」
「それで」
「ラディスラフ殿下を、お立てすることを」
前列の男が、後ろから押された肩を振りほどいた。
エルザは、その動きを見ていた。やがて膝の上で手を重ね、続けた。
「ローベル卿は、ジークムント殿下が生きておられる限り、殿下を支持する者たちが、いずれお戻ししようとするだろうと」
「王妃は、何と答えた」
エルザの唇が、薄く結ばれた。
法院の窓に日が差し、硝子の一枚だけが白く光った。そこにいた職員が身を引くと、室内の暗がりが、そのまま外から見えるようになった。
「あの子の死が必要なら、そうしなさいと」
人垣の声が途切れた。
「その後に立つのは、ラディスラフです、とおっしゃいました」
誰かが、息を吸った。
先ほど母の悲しみを持ち出した男は、エルザを見ていた。口が開きかけたが、隣の者へ顔を向けただけで、何も言わなかった。
「後継から外すという意味を、あなたがそう受け取られたのではありませんか」
シグルーンが尋ねた。
「違います」
「死、という言葉を、御自身でお聞きになったのですね」
「はい」
「命を奪うと分からずに、何かをお頼みになった可能性は」
エルザは首を振った。
「ローベル卿のお話を聞かれた上で、お答えになりました」
シグルーンは、返書から手を離した。
ヴァンフリートが尋ねた。
「ローベルは、それを断ったか」
「いいえ。詳しい進め方は、自分に任せていただきたいと」
「王妃は」
「お認めになりました」
院務官が、傍らの職員の腕を取った。
耳元へ何か囁くと、職員は脇門へ急いだ。その靴音がまだ聞こえているうちに、ヴァンフリートが次を尋ねた。
「兵士の名は出たか。塔の鍵や、地下の扉の話は」
「私の前では、ございません」
「実行の細かいところまで、王妃が指図したとは言えないな」
「言えません」
ヨストの筆が、その答えを留めた。
「お前は、ジークムントに知らせなかった」
「知らせませんでした」
エルザは、エスネエーレの方を見た。
彼女は顔を背けなかった。
「止めようとも、しませんでした」
問いを待たずに、エルザは言った。
「それも、お書きください」
ヨストは頷き、書き足した。
人垣の中にいた代書人が、外套の内から紙を出した。その隣の者も、自分の書類を裏返し、余白を探し始めていた。
エルザが席を離れても、ヴァンフリートはすぐに次の者を呼ばなかった。
彼女の後ろ姿を追っていた人々が、一人ずつ机へ顔を戻した。
「殺せと言っただけで、王太子の寝所へ兵士が湧くわけじゃない」
彼は、卓上の書状を脇へ寄せた。
「近づける道が要る。引き受ける奴も要る。その支度を、誰がしたかだ」
錠前職人が前へ出た。
椅子に座ってからも、帽子を脱いだ手を膝へ下ろさなかった。アエミリアが修繕の写しを差し出すと、ようやく帽子を脇へ置き、紙を両手で受け取った。
「直したのは、王宮の地下にある扉の錠だな」
「そうです」
「壊れていたのは本当か」
「鍵が、うまく掛からなくなっていました。内側の部品が減っておりまして」
「仕事自体は、必要だった」
「ええ」
「ただし、その日にする予定じゃなかった」
職人は、紙から顔を上げた。
「翌週でした。それを、早く来るようにと」
アエミリアが、日を変える通知を隣へ置いた。
「誰が変えさせた」
職人は署名を指した。
ローベルの官房で用務を扱っていた者だった。
「その場で直したのか」
「外して、店へ持ち帰りました。部品を合わせなければなりませんので」
「戻したのは」
「翌日です」
「つまり、その晩は鍵が掛からない」
「扉を閉めることはできます。ただ、錠はありませんから」
アエミリアが、修繕の日を読み上げた。
ジークムントが殺された晩だった。
前の方にいた男が、自分の書き留めた日付を見直した。隣の者が覗き込み、二人の頭が紙の上で近づいた。
「塔の鍵を開ければ、それで王宮へ入れると思っていた者はいるか」
ヴァンフリートが尋ねた。
答える者はいなかったが、何人かがエスネエーレを見た。
「古い通路の向こうには、王宮側の扉がある。そっちにも鍵が掛かる。この女が塔の鍵を開けても、そこまでは開かない」
彼は、職人の前に置かれた通知を指した。
「その錠が、ちょうど事件の晩だけ、店にあった」
「私は、そんなことになるとは」
職人が言った。
帽子へ伸ばした手が、縁を掴み損ねた。
「殺されるなど、聞いておりません」
「聞いたとは言ってない。錠前を直すのは、お前の仕事だ。なぜその日に直させたかは、頼んだ奴に聞く」
ヨストも、職人へ言葉を添えた。
「御自身がなさったことと、受けた指示を確かめています。知らなかったことまで、お答えになる必要はありません」
職人は、帽子を膝へ戻した。
アエミリアは巡回の記録を開いた。修繕中の扱いとして、その夜の施錠確認も外されていた。彼女が必要な箇所を読む間、職人は口を挟まずに聞いていた。
自分が錠を持ち帰った後にも、仕事が続いていたことを、今、初めて知るような顔だった。
その男と入れ替わって座った請負商人は、同じ通知を一瞥すると、すぐに目を外した。
「お前にも、ここから指示が来たな」
ヴァンフリートが尋ねた。
「修繕に関することであれば」
「金のことだ」
アエミリアは支払いの写しを出した。
商人は読み始めたが、途中で、紙を持つ指の位置を変えた。
「この金を受け取り、その一部を、仕事の代金とは別に渡した」
「官房からの御指図でした」
「誰に命じられたかは、後で聞く。渡したか」
「渡しました」
「どこへ」
商人は、両替商の名を答えた。
その先の受取記録を、アエミリアが並べた。別々の場所で確かめた金額と日付をヨストが示すと、商人は、もう最初の紙だけを見ているわけにはいかなくなった。
一方は、実行犯の借金の清算に充てられていた。
もう一方は、その子供の治療費として、先に支払われていた。
「扉を直すついでに、兵士の借金まで直したのか」
ヴァンフリートが言った。
「困っている者のためだと、聞いておりました」
「それを材料費へ足した」
「通常の支出としては、扱いにくい事情があると」
シグルーンが、一枚を引き寄せた。
「この材料は、納めたのですか」
「ほかの分と合わせて――」
「こちらに記された分を、お尋ねしています」
商人は、机の上を見た。
「その分は、納めておりません」
「では、寄付金でしたら、なぜ納めていない材料の代金にしたのですか」
「官房からの御指図で」
「誰です」
男が名を答えると、脇へ退いていた錠前職人が顔を上げた。
「私も、その方からです」
アエミリアは二つの写しを並べた。
錠を外す日を早めた通知と、金の支払いを扱った書面に、同じ名があった。離れたところからでは文字までは読めなかったが、前列の者が場所を譲り、後ろにいた代書人が身を屈めて確かめた。
商人はヴァンフリートを見た。
「こちらへお答えください」
シグルーンが言った。
「まだ、お尋ねしている途中です」
その声は大きくなかった。けれど、男の顔はすぐに戻った。
「あなたは、実際には納めていない品を納めたことにして、金の行き先を隠した。それは御自身で承知してなさったのですね」
「……はい」
「殺すための金だとは、聞いていない」
ヴァンフリートが言った。
商人は、急いで頷いた。
「そのとおりです」
「そこは、聞いてないと書く。だが、お前が帳簿を偽ったことまで消えるわけじゃない。都合のいい方だけ返事をするな」
シグルーンが紙を戻した。
アエミリアが次の写しを出すより早く、その手が、確かめるべき箇所へ伸びた。鞄は、いつの間にか椅子の下へ押し込まれていた。
マルタは、呼ばれてから、少し遅れて歩き出した。
机までの間に、エスネエーレの椅子があった。そこを通る時だけ顔を下げ、座ってからも、持っていた布袋を膝の上で抱えていた。
「塔で勤めていた頃、手紙を読んだな」
ヴァンフリートが尋ねた。
「はい」
「ラディスラフから、エスネエーレへ来たものだ」
「そうです」
「持ち出したのか」
「いいえ。言葉を写しました」
アエミリアは、私信から抜き出した一節を差し出した。
マルタはそれを見ると、布袋から片手を離した。紙を受け取ろうとしたのではなかった。指が途中で止まり、そのまま膝へ戻った。
「そこにある言葉だな」
「はい」
「読めるか」
マルタは唇を湿らせた。
「迷子の騎士には、二杯目の紅茶を」
エスネエーレの手が、膝の布の上で止まった。
アエミリアは、その顔を見かけ、紙へ目を戻した。
「その言葉を、誰へ渡した」
「男の方です。名は、存じません」
「何のために欲しいと言った」
「殿下からのお使いだと、分かるようにと」
「本当に殿下から来たか、確かめたのか」
マルタは首を振った。
「何を貰った」
「お金を。それから、塔の勤めを替えていただけると」
人垣から、小さな声が漏れた。
マルタは布袋を抱え直した。
「願いは、通ったか」
「はい」
アエミリアは異動の記録を開いた。それまで認められなかった願いが、事件の少し前に通っていた。取り扱ったのは、ローベルの官房だった。
「その男を、ローベル卿の部下だと確かめたわけではありませんね」
シグルーンが尋ねた。
「はい」
「実行犯と会ったことは」
「ございません」
ヨストは、仲介した男の名は確認できていない、と記した。
ヴァンフリートも、そこを別の名で埋めようとはしなかった。
「殺人を手伝えと、頼まれたか」
「いいえ」
「エスネエーレが、手紙の言葉を外へ渡してくれと頼んだことは」
マルタは、初めて彼女を見た。
「ございません」
エスネエーレは、その目を受けていた。
「わたくしには、何も」
言いかけて、口を閉じた。
マルタの唇も動いたが、声にはならなかった。ヨストが記した内容を確かめる間、二人の間へ言葉を差し挟む者はいなかった。




