第44話
「その机を、どけなさい!!」
書記が言った時、ヴァンフリートは、もう椅子に座っていた。
朝の冷えが残る石段の下へ、アエミリアが書類を広げ、ヨストが持ってきた腰掛けを並べていた。
正門を通る者は、そのたびに足を緩めた。
いつもの通りの角であれば、誰も気に留めない机だった。
それが王家の紋章を戴く門の前にあるだけで、通り過ぎるのに、何か見落としているような顔をする者が増えた。
「ここは、商売をなさる場所ではありません」
「今日は金を取らん。俺にも不満はある」
「そういう話ではない。誰の許可で置いたのですか」
「誰にも聞いてない」
ヴァンフリートは、インク壺の蓋を開けた。
「聞けば返事を待つことになるからな」
書記は彼を見た。それから、椅子を運んでいるヨストへ顔を向けた。
「メーレン殿。これは、どういうことです」
「本人に聞いてくれ。今、よく喋っている」
ヨストは腰掛けを下ろした。
書記の頬が赤くなった。正門へ振り向き、門衛を呼んだ。
「運び出してください。ここを使う許可は出ておりません」
門衛が近づくと、ヴァンフリートはようやく立った。
机を片づけるためではなかった。アエミリアの脇を抜け、石段の一段目へ上がった。通りを行く人々より、頭が少し高くなった。
「十年前、ジークムント王太子を殺した男は処刑された!」
ヴァンフリートは、わざとらしいほど声を張った。
名前は、荷車の軋む音の間を通った。書記へ目を向けていた者たちが、今度はヴァンフリートを見た。
「今日は、その男に金を払い、王宮へ入る道を開けてやった連中の話をする」
書記が息を飲んだ。
「何を言い出すのです」
「何を始めるのか知りたかったんだろ。最後まで聞けよ」
門衛は、机の角へ掛けようとしていた手を止めた。
通りの向こうで、荷を受け取っていた店の男が、抱えた包みを荷台へ戻した。法院へ入るはずだった二人が石段を下り、一人が、今のは何の話だと尋ねた。
「王太子殺しだと」
「もう裁いた事件だろう」
その声へ、ヴァンフリートが顔を向けた。
「殺した男は裁いた。誰が殺させたかまで聞いた覚えがあるなら、お前が教えてくれ。俺は座って聞いてやる」
声を出した男は、口を閉じた。
隣の者が、その肘を押した。男は手を払い、今度は机の近くへ寄ってきた。
書記が二人の間へ入った。
「これは法院の審理ではありません。この者に、事件を審理する権限など――」
「知ってる。俺が許しを取ったと、誰か言ったか」
「それなら、直ちに撤去を」
ヴァンフリートは、書記の肩越しに通りを見た。
「王宮の修繕費が、殺した男の借金を消すために使われていた。扉の錠を外す日は、事件の晩に合わせて変えられていた。帳面もある。指図を受けた人間も来る」
人々の間で、低い声が湧いた。
何人かは笑いかけていた。
通りの代言人が、また妙なことを始めたと思ったのだろう。
だが、アエミリアが包みを解くと、笑っていた顔が卓上へ向いた。紙の端には、照合を受けた印が並んでいた。
「暗殺を命じる相談を、そばで聞いていた者もいる」
今度は、声が途切れた。
向かいの店で外しかけた戸板が、壁へぶつかった。その音の後にも、誰もすぐには喋らなかった。
書記の声だけが高くなった。
「そのような話を、ここですることは認められません!」
「では、中で聞くか」
ヴァンフリートが振り返った。
「部屋を空けろ。俺たちは喜んで移る」
「そのような手続にはなっていない」
「なら、ここで聞け」
誰かが、短く口笛を吹いた。
書記はそちらを睨んだが、声の主は分からなかった。代わりに、何人もの顔が自分へ向いていることに気づいた。
「誰でも勝手に、法院の前へ机を持ち込んでよいということにはならんのです」
「俺が机を置いた理由は話した。お前がどかす理由も、全員に聞こえるように言え」
「許可を得ていないからです!」
「ああ。それは間違いない」
ヴァンフリートは頷いた。
「王太子を殺した相談の方も、そのくらいはっきり答えてもらえると助かる」
笑いが起きた。
今度は、一人ではなかった。書記が門衛へ何か言おうとすると、その後ろから、話だけでも聞かせろという声がした。
門衛は机に手を掛けたまま、書記を見た。
「動かすなら、先に紙を退けます」
アエミリアが言った。
彼女は両手で書類を押さえていた。自分の声が思ったより遠くへ通ったので、少し驚いた。
「原本から照合した写しです。濡らさないでください」
門衛の指が、机の縁から離れた。
書記が何か言いかけた時、ヴァンフリートは、もう通りへ向き直っていた。
「聞きたい者は残れ。反論のある者も残れ。俺の話がおかしければ、その場で言えばいい」
法院へ向かっていた人の流れが、机の前で曲がり始めた。
後から来た者は、何も聞いていなくても足を止めた。
立ち止まった者へ尋ね、さらにその後ろへ人がついた。
馬車を降りた男が御者へ先に帰るよう言い、使いの少年が、人の肩の隙間から石段を覗いた。
正門の前に、誰も予定していなかった半円ができていた。
ヨストは、その端へ歩いていった。
「入口は空けてください。中へ御用のある方を通していただきたい」
人々が少し動いた。
机は残った。
書記は、その机とヨストを見比べた。注意しているのは確かにヨストなのに、その注意に従うほど、集まりの形が整っていく。
「責任者を呼んできます」
「話を聞ける奴を頼む。机の寸法に詳しい奴は、もう間に合ってる」
書記は返事をせず、石段を上がった。
途中で院内から出てきた職員とぶつかりそうになり、声を潜めて何か伝えた。その職員も机へ目を向け、すぐには信じられなかったらしく、もう一度聞き返した。
シグルーンは、人垣の外で足を止めていた。
御者が道を開けようと声を掛けると、見物人の一人が彼女に気づいた。名が小さく伝わり、人の肩が左右へ退いた。
その先に、ヴァンフリートがいた。
法院の石段を背に、集まった者へ何か話している。
机の前には椅子が並び、アエミリアが書類を出していた。
門衛まで立っていたが、守っているのか、追い出そうとしているのか、外からは判然としなかった。
「ローエンハイム卿」
「来たか。そこだ」
彼は、机の向かいの椅子を指した。
シグルーンは座らなかった。
「何をなさっているのですか」
「昨日話した件だ」
「昨日は、法院の正門を占領するとは伺っておりません」
「入口は空けてある」
「そういう意味ではありません」
彼女はアエミリアを見た。
アエミリアは、渡すはずだった写しを両手で持ったまま、目を逸らせなかった。
「許可は」
「取ってると思うか?」
ヴァンフリートが答えた。
シグルーンは、ゆっくり彼を見た。
「これから取るおつもりなのですか」
「今、叱る相手を呼びに行った。順番は多少前後してる」
近くで笑い声がした。
シグルーンは振り向かなかった。そのまま、御者へ手袋を返した。
「帰ります」
「俺の話を聞いて、間違ってるところを言う約束だっただろう」
「そのために、ここへ座れと?」
「ああ。俺だけに喋らせたくない奴が、ちょうど来た」
ヴァンフリートは、人垣へ顔を向けた。
「シグルーン・フォン・アイスベルク、かの有名な氷姫だ。俺の説明に穴があれば、こいつが黙ってない」
「勝手に御紹介なさらないでください」
「ほらな」
笑いが広がった。
シグルーンは、笑っている者たちを見た。何人かが、急に真面目な顔へ戻った。
「この方の言うことを、聞く前から正しいと思わないでください」
「そうしてくれ。間違った時、こいつが喜ぶ」
「あなたの間違いは、喜べる程度で済むとは限りません」
彼女は椅子を引いた。
勢いよく座ったわけではなかった。
濡れていないことを確かめ、裾を整え、アエミリアから写しを受け取った。それから鞄を膝に置いた。
「お断りしておきますけれど、賛成したから座ったのではありません」
「反対する奴の席だ。合ってる」
シグルーンは返事をせず、最初の紙を開いた。
正門の内側で、職員たちの声が重なっていた。誰かが王宮へ知らせるべきだと言い、別の者が、まず上席へ取り次げと押し返していた。
ヴァンフリートは、その相談を待たなかった。
「始めるぞ」
アエミリアは筆を取った。
「王太子が死んで、誰の仕事が楽になったか。まず、そこからだ」




