第1話
法院通りの朝には、夜の雨がまだ残っていた。石畳のくぼみに薄い空が沈み、往来の車輪がそれを踏むたび、春とも冬ともつかぬ冷たい光が揺れた。
古びた机の向こうには、昨日までなかった椅子が、今日もあった。
アエミリアはその背を布で拭いていた。雨に濡れたわけではない。露が降りたわけでもない。ただ、座る者のない椅子というものは、何もしなければひどく所在なげに見えるのである。
ヴァンフリートは机の前まで来ると、椅子より先に彼女を見た。
「まだいたのか」
「椅子のことでしょうか。わたしのことでしょうか」
「どっちでも同じだ。勝手に居着いて、場所を取る」
「椅子は昨日、先生がお使いになったあとも残っていました」
「俺が使えば家具で、お前が座れば既成事実だ」
アエミリアは布を畳み、何も聞かなかったように椅子へ腰を下ろした。深紅の衣装も宝飾も手放したが、この妙に頑丈な椅子だけは、自分の金で買ったものだった。
「依頼人がいらしたら、わたしもお話を伺います」
「耳が二つ増えた程度で仕事が倍になるなら、驢馬を雇った方が安い」
「驢馬は記録を取りません」
「お前もまだ大して取れない」
アエミリアが返す言葉を探している間に、通りの人波から一人の令嬢が抜けた。
灰青色の外套はよく仕立てられていたが、袖口だけが少し擦れている。
彼女は二、三歩手前で足を止め、机とヴァンフリートと、その向こうに座るアエミリアを順に見た。
どう話しかければ礼を失わずに済むか、それを考えている顔であった。
「ローエンハイム代言人でいらっしゃいますか」
「違うと言えば帰るのか」
令嬢は困ったように目を伏せた。
「いいえ。ほかに、どなたへお願いすればよいのか分かりませんので」
「じゃあ俺だ。座れ」
アエミリアはすぐに立ち、椅子を譲った。
令嬢は小さく礼をして腰を下ろしたものの、膝の上に置いた両手は固く重なったままだった。
その指の下に、一枚の紙が挟まれている。
「ユリアーネ・フォン・アルテンフェルトと申します」
「それで」
「書面を直していただきたいのです」
彼女は紙を机へ置いた。
折り目のない上等な紙であった。
まだ署名はない。
けれども文面にはすでに、書いた者の望むユリアーネが出来上がっていた。
軽率で、分を越え、他家の秩序を乱し、女主人の座を奪おうとした娘である。
ヴァンフリートは紙の上へ目を落とした。
「謝罪書か」
「はい」
「誰に謝る」
「婚約者のリヒテンハーゲン家へ」
「何をした」
ユリアーネは答える代わりに、紙の一節を指で押さえた。
「ここに書かれております。ただ、少し……言葉が強すぎるように思えまして」
「書いたのはお前じゃないな」
「先方からいただきました。署名する前に、一度、代言人に見ていただいた方がよいと父が」
「まともな父親だ。娘に首輪を付ける前に、長さくらい測ろうってわけだ」
ユリアーネの指が紙から離れた。
アエミリアはその横から文面を読み、かつて自分の前にも、署名だけを待つ和解書が置かれたことを思った。
謝るべきことと、していないこととが、一枚の紙の中で仲よく並んでいる。
あの時の自分も、この令嬢と同じように、どこまで拒めばよいのか分からなかった。
「このまま署名なさりたくないのですね」
アエミリアが言うと、ユリアーネはかすかに首を傾げた。
「署名しないわけにはまいりません。わたくしがしたことですから」
「ですが、本当は、あなたも名誉を取り戻したいのでしょう?」
ユリアーネの唇がわずかに開いた。
答えは出なかった。
通りを荷車が過ぎた。濡れた石を車輪がこすり、その音だけが、三人のあいだへ長く残った。
「アエミリア」
ヴァンフリートが呼んだ。
「はい」
「依頼人に、お前の続きを喋らせるな」
彼女は息を呑んだ。
「わたしは、ただ――」
「お前が何を欲しかったかは知ってる。この女が同じものを欲しがってる証拠にはならん。人間は似た服を着てりゃ中身まで同じだと思うほど、仕立て屋に親切じゃない」
アエミリアは黙った。ユリアーネは二人を見比べたが、ヴァンフリートはもう彼女の方を向いていた。
「お前は何をした」
「ですから、書面にあるとおりです」
「この紙はお前を女主人の椅子ごと盗もうとした大泥棒にしたがってる。俺が聞いてるのは、椅子を担いで逃げたかじゃない。何をした」
ユリアーネは膝の上で手をほどいた。
「帳簿へ書き込みました」
「何の帳簿だ」
「リヒテンハーゲン家の日々の支出を記すものです」
「触っただけじゃない?」
「はい。厨房から届いた請求を確かめ、支払いの日も書きました」
「誰の許しで」
ユリアーネは少し考えた。
「家のために必要なことでしたので」
「許しを聞いてる。必要性は、お前の弁護人らしいが、今日はそいつを呼んでない」
「……明確に、誰かから許されたとは申せません」
ヴァンフリートは紙へ指を移した。
「補助印を無断で使った、とある」
「使いました」
「盗んだ?」
「いいえ。帳簿と一緒に渡されました」
「誰に」
「家令のエーベルハルトです」
「返せと言われたか」
「いいえ」
「隠れて押した?」
「いいえ。支払いの控えにも残しています」
「ずいぶん堂々とした無断使用だな。次は燃料商人を替えた」
ユリアーネの顔に、初めてはっきりした痛みが浮かんだ。
「それは、わたくしの判断でした」
「女主人に確かめたか」
「いいえ」
「婚約者には」
「アードリアン様は王都を離れておられました。急いで決めなければ、冬に間に合わなかったのです」
「だから替えた」
「はい」
「前の商人より高くなった?」
「安くなりました」
「燃料が腐ってた?」
「いいえ。品質に問題はありませんでした」
「屋敷は燃えた?」
「燃えておりません」
「惜しいな。その方が謝罪書は書きやすかった」
ユリアーネは冗談と受け取ってよいのか迷い、結局、目を伏せた。
「ですが、ヴィルヘルミナ様のご許可を得ませんでした。あの家の女主人は、アードリアン様のお母上です。わたくしではありません」
「それはそうだ。婚約しただけで家が一軒生えてくるなら、王都の住宅難も明日には終わる」
ヴァンフリートは椅子の背にもたれた。
「で、なぜ帳簿を書いた。なぜ印を使った。なぜ商人まで替えた」
ユリアーネは、今度は迷わなかった。
「花嫁教育でしたから」
雨の雫が、軒の端から一つ落ちた。
アエミリアは机の上の謝罪書を見た。そこには教育という言葉が一度もなかった。ユリアーネが学ぶ者だったことも、やがてその家へ入るはずだったこともない。ただ、よその家へ勝手に手を伸ばした女だけがいた。
「花嫁教育は、いつから受けていらしたのですか」
「昨年の春からです。十一か月ほど、リヒテンハーゲン家で暮らしました」
「教育の記録はございますか」
「記録、ですか」
「習ったことを書き留めたものです。家風や作法、客人のお迎えの仕方などを」
ユリアーネはしばらく考え、鞄から一冊の手帳を出した。
「これでよろしいのでしょうか」
表紙の角は丸く擦れ、指で繰り返し開いた跡があった。
アエミリアが受け取って最初の頁を開くと、春の日付の横には、朝食の席次でも挨拶の文句でもなく、厨房の支出が前月より増えた理由が記されていた。
次の頁では、雨で薪が湿ったため乾いた分を先に厨房へ回し、洗濯場には翌日届けるよう手配している。
夏になると、使用人から上がった修繕の相談と支払日の繰延べが書かれ、秋の頁には、冬を越すために必要な燃料の量が何度も計算し直されていた。
どの頁にも、人の暮らしがあった。火を絶やさず、食卓を遅らせず、支払うべき者へ金を渡すために、誰かが毎日、小さな決断を積み重ねている。
けれど、教えた者の言葉はなかった。
「これは、すべてユリアーネ様がお書きになったのですか」
「はい。忘れてはいけないと思いましたので」
「どなたかが、内容を確かめましたか」
「月の終わりには、ヴィルヘルミナ様へお見せしていました」
「間違いを直してくださったのは?」
ユリアーネは黙った。
アエミリアは頁を戻った。赤い線も、添削の文字もない。
ここをこうせよと命じる教師の声はなく、代わりに、誰から何を頼まれ、何をどう決めたかだけが、日を追うごとに細かな筆跡で続いている。
「誰が教えていたのですか」
その問いを受けたユリアーネは、初めて自分の手帳を見るような目をした。
「ヴィルヘルミナ様は、ご不在のことも多く……エーベルハルトは体調を崩しておりましたから……」
「では、その間は?」
「わたくしが、家のことを」
そこで言葉が止まった。
ヴァンフリートは手帳をアエミリアの手から取り、一度だけ頁を繰った。
「教師がいない教育か。便利だな。生徒だけ働いてりゃ授業になる」
ユリアーネは顔を上げた。
「働いていたわけではありません。わたくしは、いずれあの家の者になるつもりでした」
「愛情の話はしてない。お前が何をしてたかって話だ」
「ですから、花嫁教育を――」
「名前はあとでいい。人間は箱に『林檎』と書けば石まで甘くなるほど素直じゃない」
ヴァンフリートは謝罪書を持ち上げ、日誌の上へ重ねた。一方の紙には、女主人の座を侵そうとした娘がいる。もう一方には、十一か月にわたり、その家の火と金を絶やさぬよう働いた同じ手がある。
「この謝罪書は直さない」
ユリアーネの顔から血の気が引いた。
「では、わたくしは――」
「署名もするな」
「ですが、争うつもりはありません」
「安心しろ。俺もお前の気分と争う趣味はない」
ヴァンフリートは日誌を指先で叩いた。
「調べるのは一つだ。お前が教わっていたのか、働いていたのか」
ユリアーネは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
アエミリアは机の脇で、閉じた日誌を見ていた。そこには答えが書かれているようで、まだ何も書かれていないようでもあった。
朝の雲が切れ、濡れた石畳へ光が差した。机の向こうには女主人の椅子を奪ったとされる令嬢が座り、その傍らには、つい先ほどまで依頼人の答えまで奪いかけていた女が立っていた。
椅子は一脚しかなかった。けれど、この小さな机には今、他人の人生を先に決めた女主人が二人いた。




