第17話
翌朝、ヴァンフリートが法院通りへ来ると、机の向こうに見覚えのない椅子が置かれていた。
低い腰掛けではない。
背凭れのある、きちんとした木の椅子だった。
そこにアエミリアが座っている。
膝の上には帳面があり、机の端には自分で持ってきたらしいインク壺まで置かれていた。
ヴァンフリートは足を止めた。
「何してる」
「お待ちしていました」
「見れば分かる。なぜ待ってる」
「お仕事を覚えようと思いまして」
「誰の」
「あなたのです」
「嫌だ」
ヴァンフリートは机の後ろへ回り、鞄を置いた。
「依頼は終わった。金は戻る。記録も直った。めでたしめでたしだ。貴族令嬢らしく、退屈な茶会へ帰れ」
「めでたしめでたしではありません」
「屋敷まで手に入れたいのか。強欲だな」
「そうではありません」
アエミリアは帳面を机へ置いた。
「わたしは、自分の署名を見ても、何が起きているのか分かりませんでした。ほかの代言人も、署名が本物だから仕方がないと申しました」
「そいつらの悪口なら聞く。続けろ」
「あなたは、誰が金を受け取ったかを見ました」
「仕事だからな」
「わたしも覚えたいのです」
ヴァンフリートは椅子に座らず、彼女を見下ろした。
「お前、帳簿を読めるのか」
「まだ、十分には」
「聞き取りは?」
「したことがありません」
「法院の手続は?」
「これから覚えます」
「つまり何もできない」
「はい」
あまり素直に認められたので、ヴァンフリートの方が一瞬黙った。
「無知は資格じゃないぞ」
「存じています」
「お前は支払先も見ずに署名した」
「ですから、次は見ます」
「赤い衣装一枚で頭に血が上った。闘牛みたいに」
「同じことを繰り返さないために来ました」
「俺の机は、令嬢の反省部屋じゃない」
「屋根もありませんものね」
ヴァンフリートは目を細めた。
アエミリアは少しも悪びれなかった。
風が通りを抜け、机の上の紙を一枚さらった。
アエミリアが先に手を伸ばした。飛びかけた紙を押さえ、ほかの書類と混ざらぬよう、元の場所へ戻した。
「お前の椅子、邪魔だ」
「昨日までは、書類を置く腰掛けしかありませんでした」
「依頼人は長居しない方がいい」
「わたしは依頼人として来たのではありません」
「だからもっと悪い」
ヴァンフリートはようやく自分の椅子へ座った。
アエミリアの椅子を退かせようとはしなかった。
「最初に何をすればよろしいですか」
「帰れ」
「その次は?」
「人の話を最後まで聞け」
「以前は、最後まで聞くなとおっしゃいました」
「あれはエーリヒの話だ。あいつの話は最初から最後まで同じ腐り方をしてた」
アエミリアは帳面を開いた。
「では、依頼人の話は聞くのですね」
「聞くだけだ。答えを決めるな。可哀想だから無罪、嫌な奴だから有罪。そういう頭の軽い結論を持ち込んだら、椅子ごと捨てる」
「承知しました」
「まだ置いてやるとは言ってない」
「ですが、もうお座りになりました」
ヴァンフリートは何か言い返そうとして、やめた。
法院の朝の鐘が鳴った。
石造りの建物の扉が開き、書類を抱えた人々が通りへ流れ始める。古びた机にも春の光が落ち、継ぎ目や傷を隠さずに照らしていた。
その向こうには、昨日までなかった椅子が一脚あった。




