第37話
翌日、エスネエーレの部屋には、朝の光が長く差していた。
雨に洗われた枝が、窓の向こうで黒く濡れていた。
溶けきれずに残る雪の庭と、土の出たところとの境が、昨日より曖昧になっている。
軒から落ちる雫を受けて、窓の下の浅い水溜まりに、幾つも輪が重なった。
家令が茶を置いて下がると、エスネエーレは卓の上の包みを見た。
「わたくしが、養女になった時のものでございますか」
「それと、その前後のやり取りだ」
ヴァンフリートは答えた。
「お前の母親のことも、少し分かった」
エスネエーレは、膝に置いていた手を動かした。
「母は、身分の低い者だったと聞いております」
「ああ。先々代王の身の回りで働いていた侍女だ」
「お側にいた、というのは、そのような意味でしたのね」
彼女は、差し出された控えを受け取った。
母親の名を見つけるまでに、少し時間が掛かった。
見つけると、その下の行へはすぐ進まなかった。
「お亡くなりになったのは、わたくしを産んで、すぐなのですね」
「間もなく、と残っている」
ヨストが答えた。
「日にちを詳しく記したものは、今のところ確かめられていない」
エスネエーレは頷いた。
「わたくしを、抱いたことはあったのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
彼女は、三人を順に見た。
「それは、分からないのですね」
「ええ」
アエミリアが答えた。
エスネエーレは紙へ目を戻した。責めるような顔ではなかった。
しばらく読んでから、卓の上へ置いた。
次に渡されたのは、先々代王が公爵へ宛てた手紙だった。
エスネエーレは、こちらの方を長く読んだ。
「陛下が、お頼みになったのですか」
「ああ。当時の公爵は宰相で、若い頃からの親友でもあったらしい」
ヴァンフリートは、養子縁組の書面を隣へ置いた。
「信じている相手の家へ、お前を託した。母親をなくした侍女の子に、家の名と、頼れる先を与えようとした」
「わたくしの行く末を」
エスネエーレは、手紙の言葉を小さく繰り返した。
「そういう頼みだ」
彼女は窓へ顔を向けた。
庭を横切る下男が、濡れた枝を抱えていた。
門へ通じる道を行きかけ、脇の小屋へ向きを変える。その姿が見えなくなるまで、エスネエーレは何も言わなかった。
「では、ここで暮らすはずだったのでしょうか」
「この手紙には、塔に一生置くとは書いてない」
ヴァンフリートが答えた。
彼女は、手紙を自分の方へ少し寄せた。
ヨストが、本人のために残された財産についても話した。
金額と、その後どのように預かられていたかを、分かった範囲で伝えた。
エスネエーレは聞いていたが、金額をもう一度言ってほしいとは求めなかった。
「なぜ、陛下がそこまで」
彼女は言った。
ヴァンフリートは、椅子に座り直した。
「俺たちも、それを考えた」
エスネエーレが顔を上げた。
「お前が王家の血を引いている可能性は、高いと思ってる」
彼女は動かなかった。
「先々代王の娘だったとすれば、自分で行く末を案じ、親友に正式な養女として迎えさせたことも、暮らしのための金を残したことも、辻褄が合う」
窓の外で、水の落ちる音が続いた。
「ただ、父親だと示すものはない。王自身が認めた記録も、見つかっていない」
ヴァンフリートは、彼女の前の手紙へ目をやった。
「これだけで、お前の父親を決めることはできない」
エスネエーレは、手紙を読み直した。
初めから終わりまで目を通し、裏も見た。
何も書かれていない面を少し見てから、また表へ戻した。
「わたくしに、このことを知っていてほしかったのかどうかも、分からないのですね」
「ああ」
「そうでございますか」
彼女は紙を置いた。
卓の上には、茶が手をつけられないまま残っていた。
湯気は、もう見えなかった。
「先々代陛下でしたら……」
エスネエーレの視線が、ヴァンフリートからヨストへ移った。
「ラディスラフ殿下の」
「祖父だ」
ヴァンフリートは答えた。
エスネエーレは、王の手紙を押さえていた指を引いた。
引いてから、自分でもその手を見た。
「わたくしが御息女なら、殿下の、叔母に」
「その仮説が正しければ、そうなる」
返事の後に、長い間があった。
エスネエーレは、卓の縁へ両手を置き、一度立とうとした。
椅子がわずかに動いたが、そのまま座り直した。
アエミリアも身を動かしかけた。けれど、何を差し出せばよいのか分からず、膝の上へ手を戻した。
「王妃陛下は、それを御存じだったのでしょうか」
エスネエーレが尋ねた。
「疑っていたことは分かった」
ヴァンフリートは、王妃宮からの書状を見せた。
「王家との縁組に差し障るかもしれないと、この家へ言ってる。お前たちには、詳しく知らせないようにとも」
彼女は読んだ。
読み終えても、顔を上げなかった。
「おっしゃってくだされば」
それだけ言って、口を閉じた。
アエミリアは、銀の万年筆へ目をやった。
今日も小箱の上に置かれていたそれは、窓から届いた光が、軸の片側だけを白くしていた。
「ラディスラフ殿下には、もっと相応しい方がおられます」
エスネエーレは言った。
ヴァンフリートの目が、彼女へ戻った。
「どこの誰だ」
「わたくしが、存じているわけではございません」
「じゃあ、まだ会ったこともない女を連れてきて、お前の話を終わらせるな」
エスネエーレは唇を結んだ。
「終わらせるのではありません。わたくしは、弁えております」
「何をだ。今、初めて聞いたことだろ」
彼女は答えなかった。
アエミリアは、王妃宮の書状を少し脇へ寄せた。
「もし本当に血が近いのなら、そのことは、これからお考えになる必要があります」
エスネエーレがこちらを見た。
「でも、今分かったことを、昔のエスネエーレ様が知っていたことにはできません」
「知らなかったからといって」
そこで声が止まった。
アエミリアは続きを待った。
エスネエーレは、膝の上で指を重ねた。銀の筆へは目を向けなかった。
「わたくしは、あの方が来てくださるのを、ずっと待っておりました」
「はい」
「お帰りにならなければよいと、思ったこともございます」
アエミリアは返事をしなかった。
エスネエーレは、しばらくして手を解いた。
「知らずにいた時間まで、違うものになるのですね」
「違う話を、そこへ後から入れられたんだ」
ヴァンフリートが言った。
「その時間に、お前が何を知って、何を思っていたかまで、勝手に書き換えるな」
彼女は、彼を見た。
「では、どうすればよろしいのですか」
「今、答えを出す必要はない」
「答えが、変わるとも思えません」
「それも、考える前に決めた答えだ」
エスネエーレは目を伏せた。
庭の水溜まりへ、枝の影が揺れていた。
風が吹くたびに水面が細かく乱れ、映っていた窓が、一度形を失ってから戻った。
「先生」
アエミリアが、小さく呼んだ。
ヴァンフリートは彼女を見た。それから、エスネエーレへ向き直った。
「俺に都合のいい返事をしろと言ってるんじゃない」
さきほどより、言葉の間が空いていた。
「父親が誰かは分からない。分からないまま、近い血かもしれないという話を、お前は聞かなきゃならなくなった。嫌な話だ。すぐに片づくとは思ってない」
エスネエーレは、まだ目を伏せていた。
「ただ、お前が考える前に、俺や王宮が終わり方を決める用はない」
彼女の手が、卓へ戻った。
先々代王の手紙に触れたが、持ち上げはしなかった。
「このお話は、どこかへ出されるのですか」
「勝手に人前へ出さない」
ヴァンフリートは答えた。
「お前が暗殺を知ってたかどうかを争うのに、父親の名前は要らない」
「わたくしを助けるために、お使いになるのでも?」
「王の娘かもしれないから外へ出せ、とは言わん。そうならなかったら、また閉じ込めるのか」
エスネエーレが顔を上げた。
「系図に、そこまで働かせる気はない」
彼女は、すぐには何も言わなかった。
やがて、王妃宮の書状を返し、母親の身元を記した紙だけを、自分の前へ残した。
「こちらを、もう少し読んでもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
アエミリアが答えた。
エスネエーレは、今度は母の名だけでなく、その勤めについて書かれたところも読んだ。
字の薄い箇所を確かめようと、紙を窓へ向けた。
アエミリアが隣へ寄ると、彼女は読み取れなかった一字を指した。
二人でその字を確かめた後も、エスネエーレは紙を離さなかった。
「王のお側で、どのように働いていたのでしょう」
誰へともなく言った。
「父親のことが分からなければ、母のことも、これ以上聞いてはいけないものと思っておりました」
「お前の母親だろ」
ヴァンフリートが言った。
「王宮の都合より、お前が知りたいかどうかを先にしろ」
エスネエーレは、母の名へ指を添えた。
「知りたいです」
声は小さかった。
ヨストが、膝の上へ置いていた帳面を開いた。
「分かることが、まだ残っているか確かめましょう」
エスネエーレは頷いた。
それから、先々代王の手紙も手元へ戻した。
「こちらも、お預かりしたいのです。すぐに何かを決めるためではなくて……」
言葉を探すように、しばらく紙を見た。
「わたくしのことですから。わたくしも、考えてみたいと思います」
ヴァンフリートは頷いた。
「そうしろ」
帰り支度を始めると、エスネエーレは三人を呼び止めた。
「殿下へお話しになる時には、先に、わたくしへお知らせください」
「分かった」
ヴァンフリートが答えた。
「お止めしたいということでは、ございません」
「そこまで勝手に決めてない」
彼女は、わずかに息をついた。
アエミリアが鞄を閉じた時、銀の筆が小箱から取り上げられた。エスネエーレは蓋を外しかけ、一度手を止めたが、やがて自分で外した。
「何か、お書きになりますか」
「忘れないうちに、伺いたいことを」
彼女は答えた。
最初の一行を書く間、三人は待っていた。
紙が足りなくなるほどのことを書いたわけではなかった。
それでも、エスネエーレは書き終えると、少し離して読み直し、行の下へもう一つ、短い問いを足した。




