第36話
ヨストの部屋へ戻る頃には、雪が雨に変わっていた。
屋根から落ちる雫が窓の外で続き、通りを行く人は、軒の下でも帽子を脱がなかった。
アエミリアは濡れた外套を掛け、机に置かれた紙を、乾いた手で一枚ずつ広げた。
「先々代陛下が、お父上だったとすれば」
彼女は、そこで一度言葉を止めた。
ヨストが続きを待っていた。
「なぜ御自身で行く末を案じたのかも、最も信頼する公爵に託したのかも、分かります。家名だけでなく、その先の暮らしまで用意したことも」
「ああ」
ヴァンフリートは答えた。
「母親の身分からは出てこない扱いだ。王の方に、その子を気に掛ける事情があったと考えれば、つながる」
「ただ、親しく仕えた者の子を、不憫に思っただけということも」
「それは残る」
ヨストが言った。
「王が気に掛けた子供が、すべて王の子になるわけではない」
アエミリアは頷いた。
先々代王の手紙を、もう一度読んだ。
そこには、父だという言葉がなかった。
養女を引き受けた公爵も、その子の実父については記していなかった。
事情を直接知り得た者の多くは、既に亡くなっているのだから。
ヴァンフリートは、空いた椅子へ手を掛けた。
「王家の血を引く可能性は高い。先々代王の娘なら、今あるものには、かなり辻褄が合う」
「証明はできない」
ヨストが続けた。
「ああ」
アエミリアは、机の脇へ寄せていた王家の系図を見た。
前に王妃の縁者を調べた時とは違い、名を写す手がすぐには動かなかった。
「その場合、ラディスラフ殿下とは……」
ヴァンフリートの手が、椅子の背で止まった。
「先々代陛下は、殿下のお祖父様です」
アエミリアは、系図をたどりながら言った。
「エスネエーレ様がその御息女なら、殿下のお父上と、父親を同じくすることになります」
ヨストは黙って頷いた。
「殿下の、叔母に当たるのですか」
雨の音が聞こえた。
ヴァンフリートは椅子を引いたが、座らなかった。
机の向こうへ回り、系図を手に取って、すぐ戻した。
「王宮へ戻れ」
「先生?」
「歴代の系図を全部燃やしてこい。親戚同士で何代も婚姻しておいて、今さら二人だけ見つけたような顔をするな」
アエミリアは、彼を見た。
「従兄妹だの又従兄妹だの、王家の都合がつけば何でも結んできたくせに、知らずに育った女には――」
「昔の王族がしてきたから、正しいということにはなりません」
「分かってる」
返事が早かった。
アエミリアが口を閉じた後にも、ヴァンフリートの方が何か言い足しかけていた。
だが、彼は言わずに、机の端へ手を置いた。
「もし本当に、その御関係なら、気にしなくてよいとは言えません」
「分かってると言った」
「はい」
アエミリアは声を落とした。
「でも、今、先生がおっしゃったことでは、エスネエーレ様に御説明できません」
ヴァンフリートは彼女を見た。
しばらくして、手を机から離した。
ヨストは口を挟まなかった。
系図の折れかけた端を伸ばし、上へ重なっていた紙を退けた。
ヴァンフリートは、窓の方へ顔を向けた。
「小さい頃から、塔に置いた。父親を聞いても答えない。なぜそこにいるかも教えない。家の名前はやるが、その家で誰と暮らすかは、王宮が決める」
いつもより言葉が続いた。
「その中で、会いに来た男を好きになった。そうしたら、後から戸棚を開けて、実は血が近いかもしれません、気をつけるべきでしたね、だ」
「二人とも、知らなかったのですから」
「ああ。知らなかった奴だけが、これから考えなきゃならん」
彼は窓から目を戻した。
「秘密を作った連中は死んで、知らされなかった連中が罪悪感を相続する。財産より、よっぽど確実に渡ってる」
その目は怒りに満ちていた。
「あいつがこれを知ったら、なんて言うと思う」
ヴァンフリートは苛立ったように髪を掻いた。
「『ラディスラフ殿下には、もっと相応しい方がおられます』」
あまりにそれらしい声で言ったので、アエミリアは返事を失った。
「そして相応しい女を頭の中で勝手に作って、会ったこともないくせに嫉妬して、嫉妬した自分を恥じたあとで、『わたくしは弁えております』と蓋をする。最後には、ラディスラフのために会わないと言い出す。見事なものだ。王宮が新しい塔を建てなくても、あいつが自分で内側から鍵を掛ける」
アエミリアは、先々代王の手紙を見た。
その筆が何を思って動いたか、確かめることはできなかった。
けれど、紙に書かれなかったことを、今からエスネエーレが受け取らなければならないのは、確かだった。
「だからこそ、わたしたちが隠すわけにはいきません」
アエミリアは言った。
「エスネエーレ様が、ご自分を罰するように身を引こうとなさる可能性は、わたしにも分かります。ですが、それを止めたいからといって、先生が反対側からお二人を結びつければ、やはり本人たちの意思を奪うことになります」
ヴァンフリートは黙っていた。
「出生について何が分かるのか、お伝えしなければいけません。もし血が近いのなら、これからどうなさるかを考えるためにも」
「あの女は、まだ分からんと言えば、自分に悪い方だけ確かなことにするぞ」
「その時は、まだ分からないと、もう一度申し上げます」
アエミリアは、系図を彼の前へ戻した。
「知らずにお慕いしたことまで、知っていたことにはできません。それも、先生がいつも確かめていることではありませんか」
ヴァンフリートは、紙へ目を落とした。
「助手に説教される日が来るとは思わなかった」
「系図を燃やすよりは、お役に立つと思います」
ヨストが、わずかに顔を上げた。
ヴァンフリートは今度こそ椅子へ座った。
「燃やす方は取り消す。紙までなくなると、また昔からそうだったで済まされる。紙は、人間が作った物の中で唯一誇れるものだからな。人類の損失だ」
机に残った王妃宮の書状を、ヨストが読み直した。
「アーデルハイト様にとっては、出生を公にすることも、この二人が結ばれることも、避けたい話だったのだろう」
「しかも、ジークムントが確かめ始めた」
ヴァンフリートは、王太子の照会を指した。
「王宮が決めたから、では通らなくなっていた」
アエミリアは、極刑を求めた書状を思い出した。
そこには、出生のことは何もなかった。
ラディスラフを思うあまり、王位へ近づけようとして、暗殺を助けた女がいるだけだった。
「暗殺に加わったとして処罰すれば、塔にいた理由を、説明しなくても済みます」
「その女と結婚できない理由もな」
ヴァンフリートは答えた。
「生きている限り、ラディスラフがまた会おうとするかもしれない。本人が自分のことを知りたがるかもしれない。死ねば、どっちも望めなくなる」
アエミリアは顔を上げた。
「それで、あそこまでの処罰を」
「この書状だけで、王妃の考えたことを全部言い切るつもりはない」
彼は言った。
「だが、あの女が口にできなかったことを、アーデルハイトは前から気にしていた。殺人の共謀者という名前を付ければ、それを話さずに消せた」
ヨストが、出生に関する紙をまとめた。
「これは、本人へ話すためのものだな」
「ああ」
ヴァンフリートは、暗殺事件の聞き取りとは別の包みを寄せた。
「あの女の鍵を開けた理由は、父親の名前が分からなくても争える」
アエミリアは、二つの包みの間に置いていた筆を取った。
書き写したものが増えるほど、何を人前へ出すかは、簡単に決められなくなった。
彼女は出生の紙を包み終えると、紐を結び、その上へ自分の手を置いた。




