第34話
クレーフェ家の家令は、玄関を出かけていた下男を呼び止めた。
「馬車は、もう少し待たせておくように」
開いた扉から、夕方の冷気が床を這ってきた。外套を抱え直したアエミリアの足元で、敷物の房がかすかに動いた。
「塔でお育てするという最初の取り決めは、先々代陛下の御意向によるものと聞いております」
家令は、ヴァンフリートへ向き直った。
「ただ、私がこちらへ上がる前のことでございます。自分で存じていることのようには、お話しできません」
「何が残ってる」
「お嬢様を養女にお迎えした時の書類と、それ以前のやり取りが、少し」
「本人は、見たことがあるか」
家令の返事が遅れた。
「ございません」
「では、まず、俺たちがそれを見ることを伝えてくれ」
家令は頷き、階段を上がっていった。
扉が閉まると、玄関は急に静かになった。
庭の砂を踏んでいた下男の足音も遠ざかり、壁に掛かった時計だけが、三人の立つ場所へ同じ音を落としていた。
やがて家令が戻った。
「お見せするようにとのことでございます。ただ、何か分かりましたら、御自分にもお話しいただきたいと」
「そうする」
ヴァンフリートは外套を腕へ掛け直した。
古い書類は、家令の仕事部屋の、いちばん下の戸棚に収められていた。
扉を開けると、ハッカに似た匂いがした。
奥から取り出された包みには、今の家令とは違う字で、預かった年が書かれている。アエミリアが椅子を寄せる間に、家令は卓の上を空けた。
初めに出てきたのは、幼いエスネエーレを世話した者への支払いの控えだった。
塔へ乳母を置き、医師を呼び、冬の寝具を整えている。その日付をたどったヨストが、養女として迎えた書面を少し離れたところへ置いた。
「こちらより前だな」
「はい。お迎えする手続が整う前から、塔でお育ちでした」
「費用は、この家が?」
アエミリアが尋ねた。
「初めは、王宮の側でございます。先々代陛下の私用の支出として扱われております」
金額の脇には、受け取った者の名があった。乳母の給金は月ごとに続いていたが、医師への支払いは、間を置いて幾度か記されている。
ヴァンフリートは、別の紙へ目を移した。
「母親は、どこにいた」
家令は、養女を迎える前に母親の身元を確かめた控えを差し出した。
母の名の横に、侍女とあった。
「先々代陛下のお身の回りで働いていた者です。お部屋へ湯を運び、着替えを整えるような勤めだったと」
ヨストの目が細くなったのをヴァンフリートは見逃さなかった。
アエミリアは、添えられた給金の記載を見た。
ほかの侍女たちと変わるところはなかった。
家名も、家柄を示す言葉もなかった。
「お母様も、塔に?」
「いいえ」
家令は、紙の下の方を指した。
「お嬢様をお産みになって、間もなく亡くなっております」
アエミリアの目が、その行で止まった。
養女を迎えるために必要だったのだろう。
母が何者で、既に亡くなっていることが、短く記されていた。
父の名はなかった。
婚姻によって生まれた子ではないとあり、その先は、幼児の養育を誰へ委ねるかという話になっていた。
「母親の親族へ預ける話は、あったか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「この紙には、ございません」
「クレーフェ家と、その女に縁があったという話も?」
「私の知る限りでは、ございません。当家へお話が参ったのは、先々代陛下からのお頼みによるものです」
ヴァンフリートは紙を置いた。
「王のそばで働いていた侍女が死んだ。残った子供の行き先を、王自身が決めたわけか」
「その行く末を、お案じになったと」
「なぜ、そこまで気に掛けた」
家令は答えかけて、口を閉じた。
ヨストが、乳母への支払いをもう一度見た。
「その理由は、ここには書かれていない」
ヴァンフリートは頷いた。
アエミリアは、母親の名を書き留めた。父の名を入れる場所は空けず、分からない、と言葉で記した。
クレーフェ家を選んだ理由は、別の包みに残っていた。
公爵の私信だった。
何十年にもわたる手紙が、差出人ごとにまとめられている。その中から家令が取り出した束には、先々代王の名があった。
公務の書状より小さな紙だった。折り目に沿って色が濃くなり、封を切ったところが、細く毛羽立っている。
「当時の公爵は、陛下の宰相を務めておりました」
家令は言った。
「この家が、いちばん力を持っていた頃のことです」
窓の向こうには、屋敷の西側が見えていた。
長く続く窓のうち、明かりのあるものは少なかった。
閉じた鎧戸の前へ雪が吹き寄せられ、誰も通らない露台には、昼間の足跡もなかった。
「先々代陛下の代には、王宮からこちらへ来る馬車が、門の外で待つこともあったそうです」
家令は一度そちらを見た。
「今は、広間を暖めることも、めったにございません」
「宰相だったから、子供を預かったのか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「それだけではございません。お若い頃からの、御友人でもありました」
家令は、束の初めの方を示した。
公爵が宰相になるより前の手紙があった。政務に関わる相談の間へ、近いうちに会えないかという誘いが混じっている。返事が遅いと咎める文面も、病を案じる言葉もあった。
アエミリアは、差し出された一通を読んだ。
王の名で始まる命令ではなかった。
母をなくした幼い子の先を案じ、友へ頼む手紙だった。
――あの子に、お前の家の名を与えてやってほしい。これから先、頼る者のない身にならぬように。
その後には、養育に要る費用のことが続いていた。
家令は、返書の控えも出した。公爵は、子供を養女として迎えると答えていた。
「奉公先を世話してほしい、という頼みではなかったんですね」
アエミリアが言った。
「はい。当家の娘として、生きていけるようにと」
ヨストは、正式な養子縁組の書面を開いた。
エスネエーレの名があり、クレーフェ公爵家の養女とする旨が記されていた。
先ほどまで母の身元を記す紙にしかなかった幼児の名が、ここでは公爵家の一員として書かれている。
「父親の分からない、侍女の子供だ」
ヴァンフリートは、二枚を並べた。
「食う物と寝る場所だけなら、ほかにも用意できる。それを、宰相をしてる親友の家へ、正式な娘として迎えさせた」
「陛下が、最もお信じになっていた方のお一人です」
家令は答えた。
「知らない家へ託すより、御安心だったのでしょう」
「ああ。それは分かる」
ヴァンフリートは、王の手紙へ目を戻した。
「その子供に、なぜそこまで安心な先を用意したかった理由を聞いてる」
家令は黙った。
アエミリアも、返事を探さなかった。
手紙には、幼いエスネエーレを案じる気持ちがあった。だが、なぜその子のことが、国を治める男の私信にまで入ってきたのかは、書かれていなかった。
本人のために残された金もあった。
王の私財から切り分けられ、エスネエーレの名で預けられていた。暮らしを立てる時に使えるよう、養家が管理する取り決めだった。
「こちらについては、御本人に?」
ヨストが尋ねると、家令は首を振った。
「詳しくは、お知らせしておりません」
ヴァンフリートは椅子の背から身を起こした。
「家名はある。自分の金もある。その使い道を知らないのは、本人だけか」
「長く、王宮の御判断に従っておりましたので」
「便利な返事だな。お前の仕事まで、死んだ王にやらせられる」
家令は、王の手紙を押さえていた手を引いた。
ヨストが、養子縁組の書面を家令の方へ向けた。
「養女として迎えた後も、塔を出なかったのは、なぜです」
「王宮から、当面は従来の場所で養育を続けるようにと」
「いつまでかは」
「定められておりません」
アエミリアは、二つの日付を見比べた。
家の娘になる日は決まっていた。家へ来る日は、決まらなかった。
その後に続く通知では、居所を移す時には王宮へ伺うようにとあり、さらに後のものでは、許しなく移してはならないという言い方になっていた。
先々代王が亡くなり、公爵家の当主も代わった。その間も、塔で暮らす子供の世話は続けられた。
冬の寝具を替える日は、毎年来ていた。




