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第32話

 屋敷を出ると、日はまだ高かった。


 薄い雪の残る庭で、鳥が土をつついていた。

 近づく足音に気づいて木へ上がったが、三人が門を出る頃には、もう同じ場所へ降りていた。


 アエミリアは、手袋をはめるのに手間取った。


 右手の指先が冷えていた。部屋は暖かかったはずなのに、外へ出てから初めて、そのことに気づいた。


「長男の死を、次男のためだと思うこともできるのですね」


 彼女は言った。


 ヴァンフリートは歩きながら答えた。


「そう言えば、自分のためだと言わずに済む」


 ヨストは何も言わず、外套の内へ書類を収めた。


 アエミリアは歩調を緩めた。


「でも、陛下だけでは、できませんでした」


「ああ」


「ローベル卿にも、王太子殿下が亡くなれば、失わずに済むものがあった」


 ヴァンフリートは、通りの先へ目を向けた。


 王宮の屋根が見えていた。高い屋根ほど雪がよく残り、低い建物は、人の暮らす煙の中へ隠れていた。


「母親の願いを叶えるだけの、忠実な召使いじゃなかったわけだ」


 彼は言った。


「自分の机も守った」


 ヨストが頷いた。


「動機だけで殺害を認めることはできない。だが、今は、決断の席にいた者の話がある。その話を、事件前の対立と、事件後の行動に照らせる」


 アエミリアは、鞄を持ち直した。


 王妃の意向があり、ローベルが実務を引き受けた。その先では、それぞれに困り事を抱えた者が動いていた。


 病気の子供と借金を抱えた兵士も、塔から移りたかった侍女も、ローベルが一から作った人間ではなかった。本当に傷んでいた錠さえ、王宮の地下にあった。


 彼らの望みや、既にある事情を、同じ晩へ向けて動かした者がいた。


「エスネエーレ様は、その中で、何かを望んでおられたのではありませんね」


 アエミリアは言った。


 ヴァンフリートが彼女を見た。


「あの夜、お金も、新しい暮らしも、求めていません。ただ、殿下が危ないと言われて」


「信じる理由まで、向こうが用意した」


 彼は答えた。


 アエミリアは頷き、もう何も言わなかった。


 クレーフェ邸へ戻った時、エスネエーレは窓辺で本を読んでいた。


 卓上の小箱は閉じられていた。銀の万年筆は、その上に横たえてあった。読んでいるところへ栞を挟んだが、本は膝に置いたままだった。


 ヴァンフリートが、確かめられたことから順に話した。


 ジークムントが改めようとしていた王宮の役目と契約のこと。

 王妃宮の申し入れが退けられたこと。

 ローベルも、記録や伝達を自分の判断で扱う立場を失おうとしていたこと。


 エスネエーレは、ときどき目を上げた。


 王妃が長男の死を求めていたという話に入ると、本の表紙へ置いた指が動かなくなった。


「それを、お聞きになった方がいらっしゃるのですね」


「ああ。本人に会って聞いた」


 ヴァンフリートは答えた。


「話した時期と、そこへ至るやり取りも確かめた。これから、その証言がほかの記録と食い違わないかも詰める」


 エスネエーレは、しばらく膝を見ていた。


「殿下には……」


 ラディスラフの名を言いかけて、やめた。


 アエミリアは続きを待ったが、彼女は違うことを尋ねた。


「わたくしのために、起きたことではなかったのですか」


「お前を塔から出すために、王太子を殺したんじゃない」


 ヴァンフリートが答えた。


「王宮で持っていたものを失いたくない人間がいた。今、確かめてるのは、その話だ」


 エスネエーレは、本を卓へ置いた。


 表紙を閉じる時、挟んであった私信の写しが見えた。端が折れないように戻してから、ゆっくり手を離した。


「わたくしが、あの方をお慕いしたからだと、思っておりました」


 アエミリアは、彼女を見た。


「どなたに、そう言われたのですか」


「誰に、ということではございません」


 エスネエーレは首を振った。


「何度も読みますと、自分で、そう考えるようになるものですから」


 ヴァンフリートは黙っていた。


 窓から入る光の中で、銀の筆が細く光った。エスネエーレはそれを取らず、傍らの小箱だけを少し動かした。


「では、わたくしは、なぜここにいるのでしょう」


 低い声だった。


「塔の鍵を開けたから、だけではないのですね」


「お前が求めるのなら、それも確かめる」


 ヴァンフリートは言った。


 エスネエーレは頷いたが、すぐには顔を上げなかった。


 アエミリアも、答えを急がせなかった。


 庭では、雪の下から出た道へ砂を撒いていた。

 歩く者の足が滑らないように、下男が籠から少しずつ落としている。

 窓から見えるところだけでも、屋敷の門までは長かった。

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