第18話
妻だった女が会うと答えたのは、それから数日後だった。
王都を出た馬車は、畑の間を通った。刈り株の上に残る雪が、風の通ったところだけ薄くなっている。遠くの林は枝ばかりで、近づいても木々の間に空が見えた。
女の家は、小さな町のはずれにあった。
窓辺に置かれた縫い物を片づけてから、二人を中へ入れた。ヴァンフリートとアエミリアだけだった。ヨストは王都に残り、金を借りていた先を調べていた。
「子供の、今の暮らしは書かないでください」
女は、椅子を勧める前に言った。
「安心しろ、別にお前の夫を無罪にしようとか、連座させようとかって話じゃない。聞きたいのは、十年前の支払いだ」
ヴァンフリートが答えた。
「あなた方の聞きたいことが、どこまで広がるか、私には分かりませんから」
「今の暮らしは書かない。それでいいか」
女は彼の顔を見て、ようやく頷いた。
炉のそばに、小さな足台があった。
何度も塗り直したらしく、角が欠けたところから違う色が覗いていた。
アエミリアの座る椅子は少し低く、女は足台を寄せかけてから、元の位置へ戻した。
「長く、病気だったのですか」
アエミリアが尋ねた。
「すぐには治らないと、初めから言われていました」
女は窓の下から木箱を取り出した。
「けれど、治らないとは言われなかったんです」
蓋の縁に引っ掛かった糸を外し、中から紙の束を出した。
薬代の受取りや、療養のために部屋を借りた時の控えだった。紙の大きさが揃っていないので、紐を解くと、端の短いものが卓の上へ滑った。
「毎月、これくらい掛かるものなのですか」
アエミリアは、金額のある箇所を見た。
「薬を替えた時には、もっと」
「給金だけでは足りなかったんだな」
「私も縫い物をしていました。それでも、次の支払いまでに、足りないことがありました」
女は一枚を抜いた。
「この頃です。初めて、あの人が金を持って帰ったのは」
「何の金だと言った」
「余った品を、引き取ってもらったと」
ヴァンフリートは返事をせずに待った。
「初めは、本当に余り物なのだと思いました。詰所で使いきらなかったものだと聞きましたから」
女の指が、受取りの折り目をなぞった。
「後で分かりました。売っていいものではなかった」
最初に持ち出したのは、わずかな食糧や備蓄品だったという。
帳面に出る不足を埋めるため、男は金を借りた。次の給金で戻すつもりだった。ところが、その給金を待つ間にも、子供の薬は要った。
「一度だけだと言っていました」
女は言った。
「治療が落ち着いたら返せると。その後は、借りた分を返せば済むと言うようになって」
「賭け事を始めたのは、その後か」
「私が知ったのは、その後です」
返事は慎重だった。
「勝てば、全部を戻せると言いました。何を全部と言っているのか、その時には、もう分かりませんでした」
アエミリアは手帳へ書き、顔を上げた。
女は泣いていなかった。机の紙が重なるたび、角を揃えている。どれも一度は支払うために苦労した金だったが、今はもう、済んだことを示す薄い紙になっていた。
「お酒も、それからですか」
「前から飲みました。でも、帰ってこなくなるような飲み方ではありませんでした」
窓の外を荷車が通り、乾いた土の音がした。
「昔は、あの子が眠っていたら、靴を脱いで入ってきたんです」
女は、炉の方を見た。
「途中から、眠っている時に帰ってくるのが、怖くなりました」
アエミリアの筆が止まった。
女はそれに気づくと、卓上の受取りを一枚裏返した。
「子供のためだったと、書くのでしょうか」
「そうだったことは書く。ほかにしたことを消す気はない」
ヴァンフリートが答えた。
女は、しばらく彼を見ていた。
「その方がいいと思います」
紙へ目を戻した。
「子供のためだと言えば、私が何も言えなくなることを、あの人は知っていましたから」
炉の中で、薪が短く爆ぜた。
女が話した暮らしの変化は、少しずつ処分の記録と重なった。
酒で寝過ごした朝があり、同僚と争った晩があった。
不足を埋めるための借金は増え、売る品も、余ったものと言い逃れられる量ではなくなった。
やがて、勤めを失った。
その頃から、男はジークムントの名を口にするようになったという。
「子供が病気なのを知っていながら、放り出したと。あの人は、そう言っていました」
「処分の前に、自分のしたことを聞かれたはずだ」
「ええ」
「それは、話さなくなったか」
女は頷いた。
「何度も言いました。殿下が品物を売れと言ったわけではないでしょう、と」
「怒ったか」
「もう、そういう話をする時だけは、静かでした」
彼女は縫い物の籠を見た。
「私まで、向こうの味方をするのかと言われました」
少し間があってから、別のことを思い出したように顔を上げた。
「家へ来た男が、一度だけおりました」
アエミリアは、新しい行へ筆を置いた。
「どなたですか」
「名前は、聞いていません。私は奥にいました。あの人に、仕事の話があると」
「何を話した」
ヴァンフリートが尋ねた。
「詳しくは。初めは、私が知っているような話でした。辞めさせられたことや、子供のことです」
女は眉を寄せた。
「ただ、その人も言いました。お前をこんな目に遭わせたのは誰だ、と」
「夫は、何と答えた」
「殿下の名を」
家の奥で、木が鳴った。暖まった壁の音だった。
「それから声が低くなって、聞こえませんでした。帰った後、あの人は、やっと分かる奴が来たと言っていました」
女が覚えていた男の顔立ちや服装を、アエミリアは聞き取った。マルタが話した男と同じだと言えるほど、細かな特徴は揃わなかった。
事件の前、妻と子は別の住まいへ移っていた。
女は、木箱の底から、その時の紙も出した。夫の借財と妻の収入を分け、別に暮らすことを記したものだった。
「あの人が、書かせてきました」
「別れると言ったのか」
「離れている方がいいと。借金のことで誰かが来たら、これを見せろと言いました」
ヴァンフリートは文面を読んだ。
これだけで家族に何の累も及ばなくなるわけではない。それでも、男が自分と妻子の暮らしを切り離そうとしたことは、紙の中に残っていた。
「治療のお金は、どうなりましたか」
アエミリアが尋ねた。
「新しい仕事で、先に払ってもらえることになったと聞きました」
「どんな仕事だ」
「遠くへ行く仕事だとしか」
女は答え、両手を重ねた。
「でも、薬を受け取りに行ったら、支払いは済んでいると言われました。療養先にも、しばらくの費用が入っていました」
「お前の暮らす金もか」
「はい。部屋代と、当座の分を」
ヴァンフリートは、受取りの日付を確かめた。
王太子が殺される数日前だった。
「どこから支払われたか、ここへ確かめに行ってもいいか」
「構いません」
女は、療養先の名を示した。
帰る時、アエミリアは卓へ残る紙を見た。女は薬代の受取りから順に、木箱へ戻していた。
「見せていただいたものは、お返しします」
「捨てないでください」
女は言った。
「どこから出た金でも、あの子が治療を受けたことは、本当ですから」
アエミリアは頷き、借りた紙を鞄の内側へ入れた。




