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第14話

 エスネエーレは、報告の途中で一度だけ、マルタの名を繰り返した。


 窓際の卓には、先日渡した写しを挟んだ本が置かれていた。紙の白い端が、厚い表紙の間から少し出ている。


「あの人が、あの言葉を」


「こっちから文面を見せる前に、同じ一節を言った」


 ヴァンフリートが答えた。


 エスネエーレは本へ触れ、それから手を離した。


「異動の決まった日に、挨拶に来てくれました」


 言葉の間に、長い沈黙があった。


「わたくしは、よかったわねと、申し上げました」


 アエミリアは、膝の上の鞄を持ち直した。留め金が小さく鳴った。


「部屋を整える方でしたから。机の上のものにも、触れようと思えば触れられたでしょう」


 エスネエーレは、銀の万年筆へ指を置いた。


「けれど、わたくしの手紙には触れない方だと思っておりました」


 声に怒りはなかった。


 その静けさが、かえってアエミリアには痛々しかった。


「エスネエーレ様」


「はい」


「怒ってもいいんですよ」


 エスネエーレが顔を上げた。


「怒れば、何か変わりますか」


 アエミリアは返事を失った。


「そういう面倒なことを言うから、誰も怒れと言わなくなるんだぞ」


 ヴァンフリートが横から言った。


「慰めておられるのですか」


「まさか。俺にそんな特殊技能を期待するな」


「では、何を」


「怒るのに、役に立つかどうかなんて考えるなと言ってる。人間は何かを直すためにだけ腹が立つわけじゃない」


「あなたらしくありませんね」


「失礼だな。俺だって年に二、三回はまともなことを言う」


「今年の分は、もう終わりましたか」


「残りは有料だ」


 エスネエーレの口元に、ごく淡いものが浮かんだ。


 けれど、それは笑みになる前に消えた。


「いくらだったのですか」


 アエミリアは一瞬、答えに迷った。


「エスネエーレ様」


「わたくしの手紙です」


 エスネエーレは静かに続けた。


「いくらで売れたのかくらい、知ってもよろしいでしょう」


 アエミリアはマルタの言った額と、新しい奉公先を世話されたことを告げた。


 エスネエーレは表情を変えなかった。


「思っていたより安いですね」


「安い、ですか」


「はい」


 エスネエーレは微笑んだ。


「十年ですから。もう少し高いものだと思いました」


 アエミリアは何も言えなかった。


 ヴァンフリートも、珍しく口を挟まなかった。


 やがてアエミリアが一つのことを伝えた。


「マルタは、お詫びをしたいと申していました」


 エスネエーレは万年筆を手に取り、指の中で僅かに回した。


「知っていたのでしょうか。わたくしが、鍵を開けることも」


「そこまで知らされていたという裏付けはない」


「そうでございますか」


 エスネエーレは頷いた。


「それでも、お会いしたくありません」


「分かった」


 ヴァンフリートは、それ以上勧めなかった。


 エスネエーレは、しばらく窓の方を向いていた。

 灯をともすにはまだ早かったが、庭の色はもう薄くなっていた。

 硝子に室内の椅子が淡く映り、その向こうを、庭師が道具を抱えて横切った。


 アエミリアが、ラディスラフの回答を写した紙を取り出した。


 エスネエーレは写しを受け取ると、まず下の方を見た。それから、初めの行へ戻った。


「御本人が、おっしゃったのですね」


「ああ。会って聞いた」


 ヴァンフリートが答えた。


「手紙は自分が書いた。あの夜、使いは出していないと」


 彼女は目を伏せたまま頷いた。


「あの人に、鍵を開けて待つよう言われたのでは、なかったのですね」


 アエミリアは返事をしかけて、やめた。


 エスネエーレは、書面をもう一度読んだ。読み終えても卓へ置かず、両手で持っていた。


 やがて、本を開き、先に挟んであった紙を取り出した。


 紅茶のことを話している二人の手紙と、使者を出していないという回答が、彼女の膝で重なった。

 風が窓を鳴らした時も、今度は顔を上げなかった。

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