第13話
ヨストは、その間にクレーフェ家の記録を見ていた。
エスネエーレが挙げた名のうち、事件の少し前に塔を離れた女がいた。マルタという侍女だった。
寝具を替え、部屋を整えるために、ほぼ毎日上階へ上がっていた。エスネエーレが教師の部屋や温室にいる間なら、一人で机の側へ近づくこともできた。
家には、彼女が異動を願い出た書面も残っていた。
一度は替わりの者がいないと戻され、次には翌春まで待つよう言われている。それが、王太子殺害の十日ほど前、急に認められていた。
引継ぎは三日で済まされ、代わりの侍女は他の持ち場から回されたという。
「暮らしが変わった者は、ほかにもいる」
ヨストは言った。
「嫁いだ者も、親元へ帰った者もいた。だが、この異動だけは、前の返事を覆した理由が書かれていない」
アエミリアは、返された願い書と、異動を認めた通知を並べた。
待つようにと告げた方にも、すぐ移るようにと告げた方にも、本人が受け取った日付が添えてあった。
「話を聞こう」
ヴァンフリートが言った。
マルタは今、王宮で使う寝具や卓布を預かる仕事をしていた。勤め先に残る受入れの日付も、クレーフェ家の引継ぎと合っていた。
十年前の私信について話を聞きたいと伝えると、数日後、仕事の終わった後なら会えるという返事が来た。
待ち合わせたのは、クレーフェ家の家令が用意した小さな部屋だった。
正面玄関から離れた廊下にあり、窓の下には薪が積んであった。
中庭を通ってきた冷気が人の出入りのたびに流れ込み、卓の上の灯を揺らした。
マルタは厚い肩掛けを畳んで膝へ置いた。髪には白いものが交じっていたが、額から耳へ撫でつけたところに乱れはなかった。
「お嬢様のことを、お調べだと聞きました」
「手紙のことだ」
ヴァンフリートが答えた。
「塔で、あの女の手紙を読んだことはあるか」
マルタはヨストを見た。それから、帳面を開いているアエミリアへ目を移した。
「お運びしたことはございます」
「運んだかどうかは聞いてない」
「封を壊したこともございません」
「開いているのを読んだのか」
返事はなかった。
廊下で、薪を抱えた下男が足を止めた。扉の前を避けるように向きを変え、そのまま奥へ歩いていった。
ヨストが、異動の通知を卓へ置いた。
「これを受け取る少し前のことを、聞かせてもらえませんか。長く待つように言われていた異動が、なぜ急に通ったのでしょう」
「私から、それまで何度もお願いしておりました」
「その願い書も見た。替わりがいないと断られていたな」
ヴァンフリートは通知に目をやった。
「その後で、口を利いた者がいるのか」
マルタは膝の肩掛けを持ち上げ、畳み直した。
「あの方が、何をなさるおつもりだったかは、知りません」
アエミリアの筆が止まった。
ヴァンフリートは、しばらく待った。
「誰のことだ」
「塔へ用を取り次ぎに来ていた男です。異動を願っているなら、力になれると」
「名前は」
「存じません。こちらの事情を知っている方でしたので、そういう口利きのできる方だと……」
声が小さくなった。
「代わりに、何を頼まれた」
「殿下とお嬢様のお手紙に、ほかの者には分からない言葉がないかと」
マルタは卓の通知を見たまま答えた。
「お嬢様に、どなたのお使いか分かっていただくためだそうです。手紙を持ってくる必要はない、一つ教えてくれればよいと」
「それで読んだのか」
彼女は、ようやく頷いた。
「温室へおいでの間でした。届いたばかりのお手紙が、卓にございました」
「何を伝えた」
マルタは息を吸った。
「迷子の騎士には……二杯目の紅茶を」
アエミリアは顔を上げた。
持ってきた写しは、まだ鞄の中にあった。
「それだけか」
「はい。その一行を覚えて、後で小さな紙へ書きました」
「原本は」
「置いたままです。持ち出しておりません。殿下のお名前も、ほかの文面も、その紙には書きませんでした」
ヴァンフリートは異動の通知を押さえた。
「これが、その見返りか」
「あと、多少の礼金を……いただきました」
マルタは顔を上げた。
「ですが、王太子殿下が殺されるなどとは、知りませんでした。お嬢様のお名前を聞いた時も、あのことと関わりがあるのか、分からなくて」
言い終えぬうちに、アエミリアの書く手が止まった。
マルタはそれに気づき、唇を結んだ。肩掛けの縁を握る指が、一度だけ動いた。
「分からなかったのです」
もう一度言った。
「確かめようとは、しなかった」
ヨストが筆を置いた。
マルタは彼の方を見なかった。
「塔の勤めは、泊まりでございました。街で暮らしたかったのです。いつまでもあそこにいるのは……」
そこで言葉が途切れた。
暖炉のそばに積まれた薪が、一本、床へ転がった。マルタは身を屈めかけたが、膝の肩掛けが落ちそうになって、手を戻した。
「書いた紙は、その男へ渡したんだな」
ヴァンフリートが尋ねた。
「はい」
「その後で、同じ男に会ったか」
「会っておりません。異動のお知らせは、家令からいただきました」
ヨストは、彼女が覚えている男の様子と、会った場所を別に書き留めた。
そこから先の行き先は分からなかった。
男が事件の夜にどこにいたかも、マルタの話からは確かめられなかった。
聞き取りが終わり、ヨストが書いたものを読んでいる間、マルタは時折、顔を上げた。
「これは、殺害に加わったと認める書面なのでしょうか」
「そんなことは書いてない」
ヴァンフリートが言った。
「手紙を盗み見て、一節を渡した。その見返りに異動した。お前が話したのはそこまでだ」
「では、私は」
「知らない計画まで、知ってたことにはしない。知ってて売った言葉のことは、残す」
マルタは紙へ目を戻した。
名前を書いた後、筆を置く場所を探すように手を動かしたので、アエミリアが受け取った。
帰り際、マルタは扉の前で立ち止まった。
「お嬢様は、お会いくださるでしょうか」
「それは、本人に聞く」
ヴァンフリートは答えた。
彼女は頷き、肩掛けを直して廊下へ出た。




