第10話
手紙を収めた箱は、窓から遠い方へ置かれた。
硝子の隅には、夜の冷えが白く残っていた。
中庭の水盤を覆った薄氷に日が当たり、底へ沈んだ葉が、まだ水の中にあるのか氷に挟まれているのか、窓越しには分からなかった。
王宮の保管係は、箱を包んでいた布を畳んだ。
蓋の内側に古い押収札が貼られている。
ヨストが受入れの帳面と照らし合わせる間、アエミリアは手袋を外し、冷えた指を膝の上で握った。
私信の閲覧が認められたのは、クレーフェ家を訪ねてから三日目だった。
ローベルの死後、行き先の決まらない書類が幾つもの部屋に積まれていた。
エスネエーレの処遇を整理するための確認だと申し入れると、今度は返事が来た。ただし、見られるのは指定された私信だけで、原本はこの部屋から出せないという。
「写しには、こちらで照合した印を入れます」
保管係が言った。
「読んだ内容を、みだりに外でお話しにならぬよう」
「十年前に言ってやればよかったな。王都中で、この女の恋愛に詳しい奴が増えてたぞ」
ヴァンフリートが答えると、男は帳面の留め金を閉じた。
「私は、その頃の担当ではありません」
「知ってる。だから、今聞けたんだろうな」
ヨストが閲覧の用紙へ署名した。
保管係はそれを受け取り、隣室へ下がった。扉の向こうで椅子を引く音がした。
箱の中には、大小の封筒が収まっていた。
ラディスラフから届いたものと、エスネエーレの手元に残っていた書き直しとが、分けて束ねられている。
外側の包み紙には同じ筆で番号が振られていたが、中の紙は一様ではなかった。
厚いものもあれば、光へ透かすと繊維の粗さが見えるものもある。
封の脇に残った蝋は、暗い赤から茶に近い色へ、少しずつ違っていた。
ヨストは束を解き、日付の古い方から並べた。
「全部を書き写す必要はない。筆跡を比べられるものと、聞いた言葉のある手紙を確かめよう」
アエミリアは頷き、いちばん小さな封筒を取った。
本を送る時に添えたものらしかった。
――今度の本は、俺も終わりまで読んだ。
その下に、まだ先を話してはいけないと、少し大きな字で書いてある。
同じ本について書いたエスネエーレの下書きが残っていた。
幼い字は行が下るにつれて右へ寄り、最後の言葉だけ、紙の端へ小さく収まっていた。
――主人公は三度も道を間違えました。それなのに、地図を買おうとはしませんでした。わたくしは、ついて行く従者が気の毒です。
次に送られた本にも、短い手紙が添えられていた。
――今度の騎士は地図を持っている。安心してくれ。
エスネエーレは、その本も読み終えていた。
――地図を持っていながら道を間違えるようでは、前の方より始末が悪いと思います。
アエミリアは口元を押さえた。
「何だ」
横から覗いたヴァンフリートも、その二通を読んだ。
「昔から、つまらん男には厳しかったらしい」
「本の感想です、先生」
「王宮の連中に読ませてやれば、人事の参考になる」
ヨストが封筒を揃えながら言った。
「まず、お前の採用が取り消されるな」
「辞めて十年だぞ。仕事が遅いにも程がある」
アエミリアは笑いを収め、紙を元の折り目へ戻した。
薄い角をつまむ指には、もう力を入れていなかった。
年月を隔てて抜き出した手紙には、見覚えのないほど整った字があった。
それでも、ラディスラフが行末を少し持ち上げる癖は同じだった。
エスネエーレは小さな文字を几帳面に並べるようになり、言い過ぎたと思ったらしい箇所を、一本の線で消していた。
銀の筆を贈られた礼が、その間に挟まっていた。
前より速く書けるようになりました、とあり、その下へ、殿下もお返事を早くしてくだされば、と続いていた。後半には、細い線が引かれていた。
冬の手紙を開くと、王都にも雪が降っていた。
市場の屋根から落ちた雪が、林檎売りの帽子に入ったという。
男は客がいる間は笑っていたが、ラディスラフが店を離れてから、ずっと悪態をついていたらしい。
――どうして、離れてからのお声までお聞きになったのですか。
エスネエーレは、返事の途中でそれを尋ねていた。
――林檎を忘れたので、戻った。
その答えの後には、塔の窓から見える雪はどうかと書かれていた。
――庭の雪は、まだ誰も踏んでおりません。木の下だけ、少し色が違います。殿下のお手紙を読んでから見ますと、向こうの門に、林檎をお忘れになった方が立っていらっしゃるような気がします。
アエミリアは顔を上げた。
窓の外では、庭を横切った足跡が水盤の脇へ続いていた。
手紙の雪より、ずっと薄く汚れている。隣室で保管係が咳払いをし、ヨストの繰る紙が卓を擦った。
次に開いた封筒には、秋の話が入っていた。
ラディスラフは、市場の隅で栗を焼く女のことを書いていた。
買ったその場で食べるつもりが、あまり熱かったので片手から片手へ移し、結局、外套の裾へ一つ落としたという。
――どのような匂いがするのでしょう。御本では、よい匂いとしか書いてございません。
その問いに、彼はしばらく考えたらしかった。焼いた菓子に似ていると書き、いや少し違う、と続け、最後には説明をやめていた。
――いつか、一緒に買いに行こう。焼いているところから見ればいい。紙袋を二つにしてもらうから、俺が落としても、君の分は残る。
エスネエーレの下書きの末に、小さな書き足しがあった。
――手袋は、外してからいただくのでしょうか。
その行には、消した跡がなかった。
アエミリアは、書き写すために出した紙を少し脇へ寄せた。今読んだことをどこまで写すべきか、すぐには決められなかった。
春の便りには、川沿いの道が出てきた。
岸の柳はまだ葉が少なく、水に映る枝の方が長く見えたという。
ラディスラフは馬を降りて歩き、塔へ来られる日が決まるより先に、その話を送っていた。
以前なら、君にも見せたいと書いたところに、君と歩いてみたいとあった。
エスネエーレは、道はどこまで続いているのかと尋ねていた。
返事を待つ間に地図を見たらしく、書き直した紙では、町はずれの橋を渡るのでしょうか、と問いが変わっている。
「この橋、わたしも渡ったことがあります!」
アエミリアは、小さく言った。
ヨストが一度だけ目を上げた。
「町の南の、石の橋かね」
「ええ。欄干が低くて、水が近く見えるところです」
そこまで言ってから、アエミリアは手紙へ目を戻した。
ラディスラフも同じことを書いていた。
身を乗り出すと危ない、と言い添えたところへ、別のインクで、君に言うと叱られそうだ、と書き足している。
その後の手紙で、エスネエーレは、塔の庭にも柳を植えられないか尋ねたが、根が広がるのでよくないと言われたと書いていた。
日付は、橋の話から一年あまり後になっていた。
アエミリアはその二通を並べたまま、しばらく手を動かさなかった。
「恋文って、もっと違うものだと思っていました」
ヴァンフリートが顔を上げた。
「どんなものだ」
「もっと……好きだとか、会いたいとか、そういうことばかり書くのかと」
アエミリアは、手紙の端へ目を落とした。
「昨日のお話の続きをしているみたいです」
「続きがあったんだろうさ」
ヴァンフリートは言い、開いていた封筒を彼女の前へ滑らせた。
「これは、字がよく見える。比べてみろ」
紙の上には、訪ねた日に借りて帰った本のことが書かれていた。
返すのが遅くなった詫びに続いて、違う話が始まっていた。
――君が殿下と呼ぶたび、後ろに誰か立っているような気がする。次は、名前で呼んでほしい。二人だけの時でいい。聞き逃したくないから、今度はもう少し近くに座る。
アエミリアの目が止まった。
読み違えたのかと思って初めへ戻ったが、もう一度読んでも同じことが書いてあった。頬に熱が集まり、耳のあたりまで温かくなった。
「同じ行を三度も読んでるな」
ヴァンフリートが言った。
「熱心な助手で助かる」
「読み終わりました」
「そうか。なら、息をしていいぞ」
「先生は、ほかのものをお読みになってください」
ヨストが、ヴァンフリートの側へ別の束を置いた。
「手を動かせ。口の動いた分は、誰も数えてくれん」
アエミリアは、手紙を卓へ戻した。すぐに裏返すのもおかしい気がして、そのままにした。
それに続く頃のエスネエーレの下書きは、宛名だけが二度書き直されていた。
ラディスラフ様、と一度は書いたらしい。上から線が引かれ、いつもの殿下へ戻っていた。
本文には、窓辺の椅子の脚が少し傷んだことと、次に来るまでに直してもらうことが書かれていた。
大きな椅子に替えましょうかと聞かれたが、今のままでよいと答えたという。
アエミリアは、まだ熱の残る指で紙を押さえた。
その年の秋、ラディスラフはまた栗のことを書いた。
売っている女が、去年と同じ場所にいたらしい。
森へ出掛けた日の話もあった。
葉が落ちきる前に君と来られたらよかった、と書いてから、来年は、と続けていた。
その下には、いつものように返事を求める言葉があった。
――塔の木は、まだ葉が残っているか。
日付は、事件の起きた秋だった。
アエミリアは、橋について書かれた一通の上へ、それを重ねた。
窓の外で、庭師が水盤の縁を箒で払っていた。
籠へ落ちた枯葉が、乾いた音を立てた。
やがて、ヨストが椅子を少し引いた。
「これではないか」
彼の前に、細長い紙が一枚あった。事件より、幾週か前の日付だった。
アエミリアは横へ寄り、ラディスラフの字を読んだ。
――君の「迷子の騎士には、二杯目の紅茶を」という返事を読んだ。先日は時計ばかり見るので、帰ってほしいのだと思った。湯を替える時刻を見ていたのなら、そう言ってくれればよかった。次は、もう一杯もらってから帰る。
その前後にも、古道や扉のことは書かれていなかった。借りた本を返すことと、続きをどちらが先に読むかという話があるだけだった。
ヴァンフリートは、紙を自分の方へ引き寄せた。
「本人に確かめる」
ヨストが頷いた。
アエミリアは新しい紙へ、その一節だけでなく、時計と紅茶の話を続けて写した。
書き終えてから原本と照らし合わせると、自分の書いた方にも、同じ言葉が並んでいた。
インクが乾くまで待って、アエミリアはその紙を、ほかの写しの上へ伏せた。




