第9話
「どなたが通ったのかは、存じません」
エスネエーレは言った。
「お部屋で待っていれば、殿下がおいでになると伺いましたので」
庭の鋏の音は、いつの間にかやんでいた。
アエミリアは、書き留めた文面を見直した。部屋で待った、と書いたところから、筆が進んでいなかった。少しして、その下へ、通過者は見ていない、と書き足した。
「伝令の札は、受け取っていないんだな」
「はい。見せていただいただけです」
「そこにあった番号を、今も覚えてるか」
「いいえ」
エスネエーレは、すぐに目を伏せた。
「きちんと覚えておけば、よろしかったのでしょうね」
「今、思いついた番号を言われる方が困る。覚えてないなら、それでいい」
ヴァンフリートは、自分の紙へ短く記した。
「札を見たことと、そいつが本当に殿下の使いだったかどうかは、後で確かめる」
エスネエーレの手元で、銀の筆が窓の光を受けていた。
アエミリアは、その光から顔を上げた。
「事件より前から、塔で暮らすようになった理由は、何だったのでしょう」
「そこにいるよう、言われていたからです」
返事に、ためらいはなかった。
「その理由については、お聞きになっていませんか」
「幼い頃に、一度か二度」
エスネエーレは、開いた窓を見た。
「わたくしのためだと。今は、知らなくてもよいと申されました」
少し間があった。
「いつか、伺ってもよい年になるのだろうと思っておりました」
アエミリアは、続きを尋ねなかった。
幕の裾が持ち上がり、椅子に座る彼女の靴へ触れた。通りから来る声は遠く、言葉までは分からなかった。
ヴァンフリートは、エスネエーレがこちらへ目を戻すのを待った。
「さっきの一節がある手紙は、今、どこにある」
「持っていかれたままです。殿下からいただいたものも、わたくしが書き直して残っていたものも」
「返してほしいと言ったことは」
「ございます」
彼女は答え、卓上の旧記録へ目をやった。
「事件に関わる品ですから、お返しはできないと」
ヨストが、開いていた帳面の脇へ手を置いた。
「保管先を確かめよう。今の整理で、移されていないかも」
エスネエーレは、小箱の蓋を少しずらした。
「皆様が、お読みになるのですね」
「使いを信じた理由を確かめるには、元の言葉が要る」
ヴァンフリートは言った。
「必要な箇所を調べる。勝手に世間へ配る気はない」
「そのような心配をしたのでは、ございません」
そう言ってから、エスネエーレは筆を箱へ置いた。
「……少しは、いたしました」
アエミリアは、書いていた手を止めた。
エスネエーレが小箱を閉じると、銀の光が消えた。
「でも、お確かめください」
ヴァンフリートは頷いた。
「その言葉を、ほかの誰かに話した覚えはあるか」
「ございません。殿下と、わたくしだけの言葉でした」
アエミリアの書いた一行へ、窓から細い葉の影が掛かった。
ヴァンフリートはそこへ目を落とし、もう一度エスネエーレを見た。
「二人しか知らない言葉を、三人目はどこで聞いた」




