第8話 迷子の騎士には、二杯目の紅茶を
幼いエスネエーレは、薔薇の塔を牢だと思ったことがなかった。
牢というものは、外を知る者が内と比べて呼ぶ名である。
生まれてから塔のほかをほとんど知らない子供にとっては、高い窓も、決まった時刻に開く扉も、廊下の端から先へ行ってはならないことも、世界が初めからそういう形をしているのと変わらなかった。
朝は乳母が髪を整え、午前には教師が来た。
昼食の後には温室を歩くことが許され、夕方になれば本を読み、夜には同じ窓から同じ庭を見た。
部屋にある本だけは多かった。
遠い海を渡る船も、雪山に眠る都も、夜ごと姿を変える森も、頁を開けば塔へ来た。けれど、エスネエーレが本を閉じると、それらは一つ残らず紙の中へ帰り、窓の外には昨日と同じ石壁があった。
なぜ自分はここにいるのかと、初めて乳母へ尋ねたのは、十歳になる少し前だった。
「クレーフェのお屋敷では、いけないのですか」
乳母は、梳いていた髪から櫛を離した。
「ここなら、お嬢様はお守りいただけます」
「何からですか」
「知らないほうが、あなた様のためです」
「誰が、そう決めたのですか」
乳母は答えなかった。
教師にも尋ねた。教師は眼鏡を外し、世の中には知るべき時が来るまで待たねばならないことがある、と言った。
「その時は、いつ来ますか」
「いずれ参ります」
「いずれとは、いつですか」
教師は教本を開いた。
理由を尋ねると、大人は決まって彼女のためだと言い、その後で別の話を始めた。
エスネエーレはやがて、問いには答えを得るものと、相手の顔から明かりを消すものとの二種類があることを覚えた。
自分についての問いは、いつも後の方だった。
ラディスラフと出会ったのは、その年の冬が終わろうとする午後だった。
塔の階段を駆け上がってきた少年は、扉を叩くより先に開けた。
エスネエーレは本を胸へ寄せた。
知らない足音だった。
いつも上がってくる大人たちより速く、途中で一度、何かに躓いていた。
少年の靴には泥がついていた。襟元の留め具だけが、窓から来る光をきらきら返している。
「誰だ、おまえ」
「エスネエーレ・フォン・クレーフェと申します」
「誰もいないと思った」
「おります」
「うん。見れば分かる」
少年は部屋を見回し、本棚の前で足を止めた。
「ここに住んでるのか」
「はい」
「いつから」
エスネエーレは、答えを探した。
物心ついた頃の窓も、この窓だった。
下から聞こえてくる足音を待っていた場所も、外が暗くなると侍女に閉めてもらった鎧戸も、ほかに思い当たるものはなかった。
「初めからです」
少年は、その答えには返事をせず、彼女の抱いている本を見た。
「何を読んでる」
「海を渡った騎士のお話です」
「面白いか」
「まだ終わりまで読んでおりませんので、分かりません」
「途中が面白ければ、面白いだろ」
「先生は、最後まで読んでから考えなさいと」
「お前の先生、食事も最後まで食べないと味が分からないのか」
エスネエーレは返事に困った。
棚へ目をやった少年が、もう一度彼女を見た。
階下で、誰かが名前を呼んだ。
ラディスラフ、という声を聞いて、エスネエーレは立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、少年の方が驚いた顔をした。
「そんなに急に立たなくてもいい」
「殿下でいらっしゃったのですか」
「さっきから、そうだよ」
「殿下は、なぜこちらへ」
「探検してた」
「王子殿下も、探検をなさるのですか」
「王子だからするんだ。行くなと言われる場所が多いからな」
少年は得意そうに言った。
下の声が近くなると、ラディスラフは扉へ行きかけ、引き返して、本の背へ指を置いた。
「違うのを持ってくる」
「こちらにも、まだございます」
「何回も見てたら、飽きるだろう?」
ラディスラフは、彼女の名をもう一度口にした。
「またね、エスネエーレ」
乳母も教師も彼女をお嬢様と呼び、塔の者たちはクレーフェ家から預かった方と呼んだ。名前だけを、それ以外の何者にも結びつけず呼ばれたことは、ほとんどなかった。
少年はそのことを知らなかった。知らないまま、ただ名前を呼んだ。
次に来た時、彼は本を一冊抱えていた。
きれいな装丁だった。エスネエーレがどの辺りが面白かったかと尋ねると、ラディスラフは表紙を見てから、まだ読んでいないと言った。
彼女はその場で読むのをやめ、本を卓へ置いた。
「先にお読みになりますか」
「君に持ってきたんだ」
「では、わたくしが読んだら、殿下がお読みください」
「どうして」
「お話ができませんから」
その次には、同じ本の途中まで読んで来た。
エスネエーレが先を話しそうになると、彼は両手で止めた。
彼女は口を閉じて待った。人が読むのを待つ時間が、その頃には、もう退屈ではなくなっていた。
ラディスラフが来る日は、階下にいる侍女の声までよく聞こえた。
廊下で別の人間と立ち話をしているだけでも、エスネエーレは読んでいる行を見失った。
来る者はほかにもいた。
本を教える者も、服の寸法を測る者もいた。
しかし、用事が済んでも帰らずにいるのは、ラディスラフだけだった。
ラディスラフは宮廷の授業を抜け出して来ることもあれば、兄に議論で負かされ、腹を立てたまま現れることもあった。
エスネエーレは外のことを尋ね、彼は王都の市場には香辛料と馬と焼いた菓子の匂いが一緒に漂っていることや、川岸の石は雨の前になると黒く光ることを話した。
彼にとっては昨日見たものに過ぎなかったが、彼女にとっては、本にも書かれていない世界だった。
ある午後、彼は窓辺へ座ったまま、なかなか本を開かなかった。
「兄上は、先生が説明する前に答えてしまうんだ」
エスネエーレは、向かいから彼を見た。
「間違えることは、ございませんか」
「ほとんどない」
「では、先生は何をなさるのです」
ラディスラフは顔を上げ、それから笑った。
「感心してる」
「毎日ですか」
「ああ。それから、俺にも見習えって言う」
笑った後も、彼は少しだけ口元を緩めていた。
「兄上は、本当に何でもできるんだ」
窓の外で鳴いた鳥を見ようとして、彼は椅子から身を乗り出した。
枝の向こうに王宮の屋根が見えていた。
「俺が王になれたら、君をここから出せる」
唐突に言った。
「王になったら、誰かに頼まなくてもいいだろう。そうすれば、兄上だって、俺には何もできないなんて言わない」
エスネエーレは、本を膝へ下ろした。
「出て、どこへ参るのですか」
「好きなところへ」
彼女は、少し考えた。
「殿下も、いらっしゃいますか」
「俺が連れ出すんだから、俺も行くよ」
ラディスラフは窓から戻り、さっきまで開かなかった本を手に取った。
エスネエーレはしばらく表紙を見ていたが、やがて彼が読むのを覗き込んだ。
同じ頁へ二人の影が落ちていた。
季節が巡るうちに、階段を上がってくる足音が重くなった。
ラディスラフは扉を叩いてから入るようになり、以前はすぐ隣へ寄せていた椅子も、少し離して置いた。
エスネエーレは、それを遠いと思った。けれど、自分から近づけることはできなかった。
本を渡す時に指が触れると、ラディスラフが先に手を引いた。
その後で、彼が本を上下逆に置いたことに気づいたが、エスネエーレは教えずにいた。
訪ねて来られない日が増えると、手紙が届くようになった。
初めは会えなかった日の代わりだった。やがて、会ったばかりの日にも、帰り道で思い出したことが届いた。
エスネエーレも、返事を書いた。
封を渡して部屋へ戻る途中で、もう一つ言い忘れたことに気づく。
新しい紙を出してから、これだけのために書いてよいものかと思い、結局、その周りへ別の話を幾つも書き足した。
銀の万年筆をもらったのは、そうして手紙を待つ暮らしになってからだった。
「君のものだから」
ラディスラフは、彼女が小箱の中を見たままでいると、言い添えた。
「いちいち、借りなくていいように」
エスネエーレは手に取った。
細い銀の軸はひんやりしていたが、少し握っていると、触れたところから温かくなった。
「殿下へのお返事に、使ってもよろしいのですか」
「そのつもりで、選んだ」
彼はそう言ってから、窓の方を見た。
彼女は、礼を言うまでに少し時間をかけた。
最初に持ってきた本の背は、十二年のうちに擦り切れていた。
けれど、それを棚の奥へしまおうとした侍女には、いつもの場所へ戻してもらった。
事件の夜も、エスネエーレはその筆を使っていた。
雨が降り始めていた。
窓の下を渡る風が時折強くなり、まだ乾かない文字へ、彼女は手をかざしていた。
訪ねてきた男は、下級の伝令が使う札を見せた。
王宮から手紙を運ぶ者が、塔の入口で示していたものと似ていた。
印と番号があり、男はそれを、彼女が見終えるまで手に持っていた。
「ラディスラフ殿下に、危険が迫っております」
エスネエーレは、男の顔を見た。
「殿下が」
「表の道をお使いになれません。王宮から古道を抜け、こちらへお移りになります。塔側の扉を開けてお待ちいただきたい」
「本当に、殿下がおっしゃったのでしょうか」
男は札を収め、少し声を落とした。
「迷子の騎士には、二杯目の紅茶を」
エスネエーレの手から、筆が卓へ転がった。
「そう申し上げれば、お分かりになると承っております」
彼女は、転がった筆を止めた。
手紙に書いた言葉だった。
こんな男の口から聞くはずのない言葉が、いつもの返事と同じ順序で、耳へ入ってきた。
「わたくしが、開ければ」
「殿下をお救いできます」
エスネエーレは立ち上がった。
階段を降りながら、今聞いた言葉を胸の内でもう一度繰り返した。
地下の段は、上の階より冷たかった。
燭台を持つ手を壁へ寄せ、もう一方の手で鍵を探った。
錠の穴へうまく入らず、指先が鉄に触れた。二度目にようやく入り、強く回すと、扉の奥で何かが重く動いた。
引き開けた隙間から風が来た。燭火が横へなびき、通路の先を照らせなくなった。
誰の声もしなかった。
男には、開けた後は部屋へ戻って待つようにと言われていた。
エスネエーレは上階へ戻り、向かいの椅子を炉の近くへ寄せた。
雨に濡れて来るかもしれないと思い、乾いた布も置いた。
卓上の紙を片づけたが、書きかけの一枚は、しまうかどうか迷って本へ挟んだ。
廊下で音がするたび、扉の方を見た。
何も聞こえなくなると、今度は耳を澄ませた。
雨の音の下に、階段を上がる靴音が混じっている気がした。
立って扉を開けても、廊下には誰もいなかった。
炉の中で薪が崩れ、寄せた椅子の影が、壁を大きく動いた。
ラディスラフは来なかった。
明け方、塔へ上がってきた者たちは、濡れた外套を着たまま部屋へ入った。
ジークムント王太子が殺された、と告げられた。
エスネエーレは立っていたが、いつ椅子を離れたのか覚えていなかった。
尋ねられて、扉を開けたと答えた。
誰に言われたのかと聞かれ、ラディスラフの名を出した。
そこで、一人が別の男を見た。
机の引き出しが開けられ、手紙を結んだ紐が解かれた。
積み上げた紙が一度崩れたので、エスネエーレは手を伸ばした。
触らないように、と言われた。
向かいの椅子には、まだ乾いた布が掛かっていた。




