第7話
クレーフェ家の門へ着いた時も、空には雲がなかった。
王国屈指の名門が、まだその名に相応しい財力を持っていた頃の門である。
石柱の上では公爵家の獅子が黒ずみ、長い冬に耐えた蔓が、鉄柵へ細い指を絡めていた。
塀の向こうには広い庭が見えたが、春はまだ土の下にあり、刈り込まれた木々だけが、行儀よく寒さに耐えている。
明るい砂利道の向こうに、屋敷の窓が並んでいた。
庭を手入れする男が低い枝を刈り、落ちた葉を靴の先で道の脇へ寄せていた。ハサミの音が、三人の歩く間を縫って聞こえた。
通された部屋は、二階にあった。
薄い幕を通った日が床へ広がり、椅子の脚の影を曖昧にしていた。
窓は開いている。
外で鳥が鳴くと、エスネエーレはそちらへ顔を向けたが、廊下の足音に気づいて立ち上がった。
銀に近い薄紫の髪を、後ろで静かにまとめていた。濃紫の袖から出た手が、椅子の背へ軽く添えられている。
「ヴァンフリート様」
彼女は、名を尋ねなかった。
「今度は、お聞きしなくても済みます」
「十年もあれば、覚える時間はあっただろうな」
「ええ」
エスネエーレは、わずかに口元を動かした。
「お名前を耳にすることも、ございましたから」
「ろくな話じゃなかっただろ」
「お仕事をなさっていることは、分かりました」
エスネエーレの視線がこちらへ移り、アエミリアは一度息をついた。
「アエミリア・フォン・ゾンダーブルクと申します。先生の助手をしております」
エスネエーレは丁寧に会釈した。その顔を見たまま、アエミリアは少しの間、立っていた。
隣でヴァンフリートが椅子を引く音に気づき、自分も腰を下ろして手帳を開いた。
ヨストは彼女に近況を尋ね、短い返事を聞いてから席へ着いた。
家令が茶を置き、続いて、さきほどヨストが持ってきたものと同じ書面を卓上へ広げた。
「御相談のお時間は、十分にお取りいただいて結構でございます」
「お前は、ここにいるのか」
ヴァンフリートが尋ねた。
家令はエスネエーレを見た。
彼女は一度、膝の上へ視線を落とした。
「外で、待っていていただけますか」
家令が出ていくと、扉の閉まる音が、茶器の間へ小さく響いた。
エスネエーレは、その音が消えてから言った。
「このようなお願いをして、お差し支えはございませんか」
「依頼を聞きに来た。聞く前から差し支えるほど器用じゃない」
「王宮のお許しが出たと、伺っておりますけれど」
「お前が誰かに相談する許しだ。俺に何を答えさせるかまで、決まってるわけじゃない」
彼女は、書面の端へ指を置いた。
「ローベル卿には、お恨みがおありなのですか」
「ある」
ヨストが顔を上げた。ヴァンフリートは、エスネエーレを見たまま続けた。
「その仕返しをするなら、俺の名でやる。お前の名を借りる用はない」
エスネエーレの指が、紙の端を離れた。
「失礼なことを申し上げました」
「聞きたいことだったんだろ」
彼女は否定しなかった。
窓の外から、葉の擦れ合う音が入ってきた。遠くでは庭の鋏がまだ動いていた。
「お亡くなりになったと聞いた時、何かが変わるのではないかと、思ったのです」
エスネエーレは言った。
「それから、このお話をいただきました」
卓上の書面を、少し遠くへ置き直した。読むには離れすぎた位置だった。
「外へは出たいか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「……出てみたいとは、思います」
「そうか」
「でも、どこへ行くものなのか、よく分かりません」
「今日、行き先まで決める必要はない」
彼は書面を引き寄せた。
「この紙で、引っ掛かってるのはどこだ」
エスネエーレは、本文ではなく、その下に添えられた旧記録の写しを見た。
ラディスラフ殿下を王位に近づける意図をもって、王太子宮への侵入を助けたものと見られる。
アエミリアは、その一行を読んでから顔を上げた。
「塔側の鍵を開けたのは、お前だな」
ヴァンフリートが言った。
「はい」
「なぜ開けた」
「ラディスラフ殿下を、お助けするためです」
声は低かったが、途切れなかった。
「そのことを、直してほしいのか」
彼女は頷きかけ、一度やめた。卓上の写しへ手を伸ばし、自分の前へ戻した。
「鍵を開けたことは消さなくて結構です。けれど、殺すために開けたとは残さないでください」
ヴァンフリートは、少し間を置いて答えた。
「分かった。その訂正を求める」
エスネエーレは、まだ写しを押さえていた。ヨストは何も言わず、帳面の新しい頁へ、その日の日付を書いた。
「確かめるために、ラディスラフ本人にも話を聞くことになる」
ヴァンフリートが言うと、彼女の手が止まった。
「今のお暮らしに、差し障りはございませんか」
「聞きたいのは、十年前の夜のことだ」
「それでしたら……。お近くにいらっしゃる方にも、御迷惑にはならないのでしょうね」
アエミリアは、彼女を見た。
「どなたか、心当たりがおありですか」
「いいえ」
返事は早かった。
「わたくしが、存じているはずもございません」
言い終えると、エスネエーレは口を結んだ。
手を引いた拍子に、写しの角が袖へ引っ掛かった。
それを直すのに、少し手間取った。
「……ごめんなさい。あなたに、そのようなことを申し上げても」
「いえ」
アエミリアは、動いた紙を押さえた。
ヴァンフリートは、二人の手が離れるまで待った。
「ラディスラフへの問い合わせは、出す前にお前にも見せる」
エスネエーレは、彼へ顔を向けた。
「それで、よろしゅうございます」
卓の小箱から、銀の万年筆を取り出した。蓋を外す前に、軸を指先で一度撫でた。
ヴァンフリートが依頼の内容を書き留めて差し出すと、彼女は急がずに読み、最後へ自分の名を添えた。
アエミリアは、紙が揺れないよう、窓から少し遠い方へ寄せていた。
「ラディスラフの使いだと、何で確かめた」
依頼の紙を収めてから、ヴァンフリートが尋ねた。
「札を持っておいででした。王宮の伝令が、門を通る時に見せるものでございます」
「札だけか」
「いいえ」
エスネエーレは、銀の筆へ蓋を戻した。
「わたくしたちの手紙にしかない言葉を、おっしゃいました」
ヨストが筆先を止めた。
「ラディスラフとは、いつから知り合いだった」
「十になる頃でございました」
アエミリアは、手帳から顔を上げた。
「その頃から、塔で暮らしていらしたのですか」
「もっと前からでございます」
エスネエーレは答え、それから、少し目を細めた。
「初めてお会いした時には、お使いどころか、お付きの方もいらっしゃいませんでした」




