↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
147/195

第6話

 十年後のその日は、嫌になるほどよく晴れていた。


 法院の石段は朝から白く照り返し、屋根の上には、目を逸らしても瞼に残るような冬の澄んだ青空が広がっていた。

 通りを渡る人々は眉を寄せ、日陰へ入るとようやく顔を上げた。


 アエミリアは読みかけの書面を少し傾けた。紙の白さが目に痛かった。


「もう少し、机を寄せませんか」


「太陽の方をずらせ」


「わたしにできることでお願いします」


「じゃあ、雲を呼べ。王宮に暇な奴がいるだろう。息を吹きかける仕事なら得意だ」


 アエミリアは返事をせず、机の端へ手を掛けた。


「そちらを持ってください。インクがこぼれます」


 ヴァンフリートが舌打ちをして立ち上がったところへ、通りから声が掛かった。


「端を持て。引き出しが開くぞ」


 包みを脇へ抱えた男が、机の向こう側を支えた。


 アエミリアは、机を置いてからその顔を見た。

 法院の閲覧室で一度会っている。


「閲覧室でお世話になった、メーレン卿ですね」


「ええ。アイスベルク女史の件は、無事に済んだそうですね」


「はい。ありがとうございました」


 ヴァンフリートは椅子を引きながら、二人を見た。


「そういえば、こいつとの関係までは話してなかったな。俺が法院にいた頃の教育係だ」


「先生の、教育係……」


 アエミリアはヨストを見てから、ヴァンフリートへ顔を戻した。


「性格までこいつに習ったわけじゃないぞ」


「残念なことにな」


 ヨストが静かに言った。


 アエミリアは口元を緩め、それから、さきほどよりきちんと向き直った。


「アエミリア・フォン・ゾンダーブルクと申します。先生のところで助手をしております。改めて、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


「暇な時に行くなよ。講義が始まる」


「お前は始まる前から聞いていなかったな」


 アエミリアはもう一度二人を見比べた。ヴァンフリートは何も言い返さず、卓上のインク壺を日陰へ寄せた。


 ヨストが包みを置いた。


「ローベルが死んだ」


「ああ。聞いた」


 ほどかれた布から、古い紙の束が現れた。表紙の折り目は白く擦れ、綴じ直した紐だけが新しかった。


「あの男が抱えていた古い記録を、王宮で整理し始めている。クレーフェ家にも書状が届いた。エスネエーレを、今の管理から外すという話だ」


「条件は」


 ヨストが別の封書へ手を掛けた時、アエミリアは小さく口を挟んだ。


「すみません。その方は……どなたですか」


 二人の目が、こちらへ向いた。


「エスネエーレ・フォン・クレーフェ。十年前の王太子殺害事件で、手引きをしたとされた女性です」


 手帳を開きかけていたアエミリアの指が止まった。


「ジークムント殿下が殺された、あの事件ですか」


「ええ」


 ヨストの返事を聞いても、すぐには次の言葉が出なかった。


 十年前、家の窓に黒い布を掛けた日のことは覚えていた。

 大人たちが声を潜め、彼女が部屋へ入ると話をやめた。

 詳しいことは知らされなかったが、その後、犯人が処刑されたことは聞いていた。


 アエミリアは通りへ目をやった。向かいでは、果物を買った女が籠を提げ直している。さっきと何も変わっていなかった。


「でも、犯人は捕まって、刑も……済んだはずでは」


「殺した男はな」


 ヴァンフリートが言った。


「今話してるのは、そいつが通った扉を開けた女だ」


「その方も、罪に問われたのではないのですか」


「刑事法院には送られなかった。王宮の管理下で暮らすことになったんです」


 ヨストは封書を開いた。


「今も、クレーフェ家の屋敷にいます。外出にも面会にも、王宮の許しが要る」


「十年、ずっとですか」


「そうです」


 アエミリアは、自分の手帳を置いた。聞きたいことはあったが、どれから尋ねればよいのか、少し迷った。


 ヨストが書面を机の中央へ出した。


 今後、旧事件の記録に異議を申し立てないことを約して、外出の制限を緩める。

 王家に関わる権利の請求も行わず、移る先の居所などについては、なお王宮の判断に従うものとする。


 アエミリアは初めの行へ目を戻した。


「外へ出るために、暗殺を助けたという記録を、そのままにしておくのですか」


「そういう案だ」


 ヴァンフリートは紙から手を離した。


「足は外へ出してもいいが、口は置いていけと」


「まだ署名はしていない」


 ヨストは言った。


「その前に、代言人と話したいそうだ。クレーフェ家の家令が私を訪ねてきた。お前の名を挙げたという」


 ヴァンフリートの目が、古い綴りへ移った。


 ヨストが一枚めくると、端の破れた紙に、急いで書いた字が見えた。行の終わりほど傾き、余白へはみ出した言葉を、後から細い線で本文へ戻してある。


「俺の字か」


「ああ」


 アエミリアは、その紙へ身を寄せた。書き癖には見覚えがあった。だが、添えられた日付は、十年前のものだった。


「待ってください。先生も、この事件を調べていらしたのですか」


「ああ」


「見習いだった頃に?」


「私が調べ始めて、この男にも手を借りました」


 ヨストが答えた。


「誰かに命じられたわけではありません。話してくれる者に会い、見せてもらえるものを写した。その覚え書きです」


 アエミリアは、ヴァンフリートを見た。


 彼は紙の端を押さえたまま、いつものような皮肉を続けなかった。


「エスネエーレ様にも、お会いになったのですか」


「一度な」


「それからは」


「会わせてもらえなかった」


 ヨストが、次の紙をめくる手を止めた。


「ローベルに、調べ続ければ彼女を刑事法院へ送ると言われた。殺害を知って手を貸したのではないと争うには、まだ証拠が足りなかった」


 言葉が少し途切れた。


「私が、調査を止めました」


 アエミリアは返事をしなかった。風が吹き、机の紙がかすかに鳴った。ヨストはめくりかけた頁を戻し、掌で押さえた。


「ただ、何を確かめられずに終わったかは残してある。ここに書いてあることも、今から一つずつ確かめ直さなければなりません」


「その調査を、もう一度なさるのですか」


 アエミリアは、さきほどより声を落として尋ねた。


「本人が望めばだ」


 ヴァンフリートが答えた。


「わたしは……そこまでのお話だとは、思っていませんでした」


「俺も今朝は、日陰へ移る程度の予定だった」


 彼は、条件の書面を古い綴りの上へ重ねた。


「まずは、本人の話を聞く」


 ヨストが頷いた。


「今回の面会は、条件を受ける前の相談として認められている。私からは、何も約束していない。調べてほしいというなら手を貸す。望まないなら、そこまでだ」


 アエミリアは、机へ置いた手帳を取り直した。開いた頁には、エスネエーレの名さえ、まだ書いていなかった。


「わたしも伺います。ただ、分からないことは、お尋ねしてもよろしいですか」


「聞け。黙って勘違いされる方が、後で手間が掛かる」


 ヴァンフリートは椅子を引いた。


 ヨストが布を広げ直した。包みを結ぶ間、アエミリアは自分の紙へ日付と名前を書いた。王太子の名を書くところで、一度筆を持ち直した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。