第6話
十年後のその日は、嫌になるほどよく晴れていた。
法院の石段は朝から白く照り返し、屋根の上には、目を逸らしても瞼に残るような冬の澄んだ青空が広がっていた。
通りを渡る人々は眉を寄せ、日陰へ入るとようやく顔を上げた。
アエミリアは読みかけの書面を少し傾けた。紙の白さが目に痛かった。
「もう少し、机を寄せませんか」
「太陽の方をずらせ」
「わたしにできることでお願いします」
「じゃあ、雲を呼べ。王宮に暇な奴がいるだろう。息を吹きかける仕事なら得意だ」
アエミリアは返事をせず、机の端へ手を掛けた。
「そちらを持ってください。インクがこぼれます」
ヴァンフリートが舌打ちをして立ち上がったところへ、通りから声が掛かった。
「端を持て。引き出しが開くぞ」
包みを脇へ抱えた男が、机の向こう側を支えた。
アエミリアは、机を置いてからその顔を見た。
法院の閲覧室で一度会っている。
「閲覧室でお世話になった、メーレン卿ですね」
「ええ。アイスベルク女史の件は、無事に済んだそうですね」
「はい。ありがとうございました」
ヴァンフリートは椅子を引きながら、二人を見た。
「そういえば、こいつとの関係までは話してなかったな。俺が法院にいた頃の教育係だ」
「先生の、教育係……」
アエミリアはヨストを見てから、ヴァンフリートへ顔を戻した。
「性格までこいつに習ったわけじゃないぞ」
「残念なことにな」
ヨストが静かに言った。
アエミリアは口元を緩め、それから、さきほどよりきちんと向き直った。
「アエミリア・フォン・ゾンダーブルクと申します。先生のところで助手をしております。改めて、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「暇な時に行くなよ。講義が始まる」
「お前は始まる前から聞いていなかったな」
アエミリアはもう一度二人を見比べた。ヴァンフリートは何も言い返さず、卓上のインク壺を日陰へ寄せた。
ヨストが包みを置いた。
「ローベルが死んだ」
「ああ。聞いた」
ほどかれた布から、古い紙の束が現れた。表紙の折り目は白く擦れ、綴じ直した紐だけが新しかった。
「あの男が抱えていた古い記録を、王宮で整理し始めている。クレーフェ家にも書状が届いた。エスネエーレを、今の管理から外すという話だ」
「条件は」
ヨストが別の封書へ手を掛けた時、アエミリアは小さく口を挟んだ。
「すみません。その方は……どなたですか」
二人の目が、こちらへ向いた。
「エスネエーレ・フォン・クレーフェ。十年前の王太子殺害事件で、手引きをしたとされた女性です」
手帳を開きかけていたアエミリアの指が止まった。
「ジークムント殿下が殺された、あの事件ですか」
「ええ」
ヨストの返事を聞いても、すぐには次の言葉が出なかった。
十年前、家の窓に黒い布を掛けた日のことは覚えていた。
大人たちが声を潜め、彼女が部屋へ入ると話をやめた。
詳しいことは知らされなかったが、その後、犯人が処刑されたことは聞いていた。
アエミリアは通りへ目をやった。向かいでは、果物を買った女が籠を提げ直している。さっきと何も変わっていなかった。
「でも、犯人は捕まって、刑も……済んだはずでは」
「殺した男はな」
ヴァンフリートが言った。
「今話してるのは、そいつが通った扉を開けた女だ」
「その方も、罪に問われたのではないのですか」
「刑事法院には送られなかった。王宮の管理下で暮らすことになったんです」
ヨストは封書を開いた。
「今も、クレーフェ家の屋敷にいます。外出にも面会にも、王宮の許しが要る」
「十年、ずっとですか」
「そうです」
アエミリアは、自分の手帳を置いた。聞きたいことはあったが、どれから尋ねればよいのか、少し迷った。
ヨストが書面を机の中央へ出した。
今後、旧事件の記録に異議を申し立てないことを約して、外出の制限を緩める。
王家に関わる権利の請求も行わず、移る先の居所などについては、なお王宮の判断に従うものとする。
アエミリアは初めの行へ目を戻した。
「外へ出るために、暗殺を助けたという記録を、そのままにしておくのですか」
「そういう案だ」
ヴァンフリートは紙から手を離した。
「足は外へ出してもいいが、口は置いていけと」
「まだ署名はしていない」
ヨストは言った。
「その前に、代言人と話したいそうだ。クレーフェ家の家令が私を訪ねてきた。お前の名を挙げたという」
ヴァンフリートの目が、古い綴りへ移った。
ヨストが一枚めくると、端の破れた紙に、急いで書いた字が見えた。行の終わりほど傾き、余白へはみ出した言葉を、後から細い線で本文へ戻してある。
「俺の字か」
「ああ」
アエミリアは、その紙へ身を寄せた。書き癖には見覚えがあった。だが、添えられた日付は、十年前のものだった。
「待ってください。先生も、この事件を調べていらしたのですか」
「ああ」
「見習いだった頃に?」
「私が調べ始めて、この男にも手を借りました」
ヨストが答えた。
「誰かに命じられたわけではありません。話してくれる者に会い、見せてもらえるものを写した。その覚え書きです」
アエミリアは、ヴァンフリートを見た。
彼は紙の端を押さえたまま、いつものような皮肉を続けなかった。
「エスネエーレ様にも、お会いになったのですか」
「一度な」
「それからは」
「会わせてもらえなかった」
ヨストが、次の紙をめくる手を止めた。
「ローベルに、調べ続ければ彼女を刑事法院へ送ると言われた。殺害を知って手を貸したのではないと争うには、まだ証拠が足りなかった」
言葉が少し途切れた。
「私が、調査を止めました」
アエミリアは返事をしなかった。風が吹き、机の紙がかすかに鳴った。ヨストはめくりかけた頁を戻し、掌で押さえた。
「ただ、何を確かめられずに終わったかは残してある。ここに書いてあることも、今から一つずつ確かめ直さなければなりません」
「その調査を、もう一度なさるのですか」
アエミリアは、さきほどより声を落として尋ねた。
「本人が望めばだ」
ヴァンフリートが答えた。
「わたしは……そこまでのお話だとは、思っていませんでした」
「俺も今朝は、日陰へ移る程度の予定だった」
彼は、条件の書面を古い綴りの上へ重ねた。
「まずは、本人の話を聞く」
ヨストが頷いた。
「今回の面会は、条件を受ける前の相談として認められている。私からは、何も約束していない。調べてほしいというなら手を貸す。望まないなら、そこまでだ」
アエミリアは、机へ置いた手帳を取り直した。開いた頁には、エスネエーレの名さえ、まだ書いていなかった。
「わたしも伺います。ただ、分からないことは、お尋ねしてもよろしいですか」
「聞け。黙って勘違いされる方が、後で手間が掛かる」
ヴァンフリートは椅子を引いた。
ヨストが布を広げ直した。包みを結ぶ間、アエミリアは自分の紙へ日付と名前を書いた。王太子の名を書くところで、一度筆を持ち直した。




