第1話 十年前の敗北
十年前。王太子が殺された朝、王都の鐘は、まだ暗い雨の中で鳴り始めた。
夜のうちに落ちたニレの葉が、法院の石段へ貼りついていた。
馬車の車輪が溝の水を押し分けるたび、濡れた葉の端がわずかに浮き、また同じところへ伏せた。
通りを行く人々は鐘を見上げるように顔を上げたが、塔の上部は低い雲に隠れ、音だけが屋根から屋根へ渡っていた。
法院の見習いだったヴァンフリートが、教育係の部屋へ入ると、炉にはまだ火がなかった。
ヨスト・フォン・メーレンは外套も脱がずに座っていた。
机にはその日の課題にするはずの調書が置かれ、その上に、別の紙が一枚重なっている。
いつもなら、ヴァンフリートが入った途端に、昨日の写しの間違いを指摘する男だった。その朝は、顔も上げなかった。
「ジークムント殿下だそうだな」
ヴァンフリートから言った。
「ああ」
「王太子宮の中で殺されたと聞いた」
「男は捕らえられた。元の王国兵で、王宮の警備にも就いていたそうだ」
「知らない客じゃなかったわけか」
ヨストは答えなかった。
病床の国王に代わって日々の政務を担っていた王太子が、自分の宮殿で殺された。
その知らせは、門を閉じた商家の前にも、朝のパンを待つ列にも届いていた。
法院では人の出入りが絶えず、廊下を行く者は誰もが忙しそうにしながら、顔見知りを見つけると足を止めた。
昼過ぎには、もう一人の名が聞かれるようになった。
エスネエーレ・フォン・クレーフェ。
クレーフェ公爵家の養女でありながら、公爵邸ではなく王宮の離れにある薔薇の塔に住んでいた女だった。
塔の地下から王宮へ通じる古道がある。捕らえられた男は、そこを通って侵入したと述べていた。塔側の扉を開けたのが、そのエスネエーレという女だという。
彼女の部屋からは、王太子の弟ラディスラフとの私信が見つかっていた。
廊下の窓辺で、書記の一人が言った。
「殿下の御為と思い詰められたのでしょうか」
「女に会ったのか」
束ねた書類を抱えていたヴァンフリートが尋ねた。
「いえ」
「じゃあ、よく分かるな」
書記は口を閉じ、彼の後ろへ目を向けた。ヨストが立っていた。
ヨストは、いつもなら見習いの口を戒めるのに、それをしなかった。
その晩、帰り支度をしていたヴァンフリートは、ヨストに呼び止められた。
「少し手を貸してくれないか」
「まだ間違いがあったか」
「今日の写しは終わった」
「なら、明日の間違いを先に直せと言うなよ」
ヨストは、机の脇へ椅子を寄せた。
置かれていたのは、公用の用箋ではなかった。
使いかけの紙に細かい字が書き込まれ、端には、聞いた相手の名が添えられている。
昼の間、ヨストが知り合いの書記や王宮へ出入りする者を訪ね、書き留めてきたものだった。
「事件の担当になったのか」
「違う」
「誰の命令だ」
「誰にも頼まれていない。私が知りたいだけだ」
ヴァンフリートは、まだ椅子に座らずにいた。
見習いが噂を拾ってきては推理めいたことを言うたび、ヨストは、その話のどこまでを自分の目で見たのかと尋ねた。
必要のない仕事へ首を突っ込むなとも言った。
その男が、夕食の時刻を過ぎても、ひとりの女について書いた紙を手放さずにいる。
「お前にも、そういう病気があったんだな」
「帰ってもよい。見習いの仕事ではない」
ヴァンフリートは外套を椅子の背へ掛けた。
「見せろ」
机の上には、まだ断片しかなかった。
捕らえられた男は、王太子を殺したことを認めている。
エスネエーレも扉を開けたことは認めた。
だが、彼女が男へ金を渡したとか、事前に会っていたとかいう話になると、誰に尋ねても確かな答えは返ってこなかった。
「恋文はあるんだな」
「押収されたと聞いた。中身は見ていない」
「殺せと書いてあるのか」
「そういう文面があったという話はない」
ヴァンフリートは紙を置いた。
「ずいぶん働き者の恋文だ。持ってるだけで人殺しの計画まで立ててくれる」
「扉を開けたのは事実らしい」
「だから、なぜ開けた」
ヨストは、書きかけていた筆を止めた。
「会って聞きたい」
その返事が妙に早かったので、ヴァンフリートは彼を見た。
ヨストは紙の端へ目を落とし、しばらくしてから筆を置いた。
「クレーフェ家に、古い知り合いがいる。頼んでみる」




