第13話
ヘニングは、細身の男だった。
証言席へ立つと、抱えていた業務控えを両手で開いた。
使い込まれた表紙は角が丸くなり、頁の端には長年触れた指の色が残っていた。
裁定官が和解書を示した。
「これは、あなたが作成したものですか」
「はい」
「依頼者は?」
「エーリヒ・フォン・ハルデンブルク様です」
「依頼を受けた日は、分かりますか」
ヘニングは控えを確かめた。
「こちらに記録しております。和解書の日付と同じ日です」
「書き上げた日も?」
「同日です」
ヴァンフリートが尋ねた。
「夜会の後じゃないな」
「はい。夜会の一週間前です」
「日付を書き間違えた?」
「いいえ」
「後から日付だけ直した?」
「そのようなこともございません」
ヘニングの声は平らだった。
エーリヒを責める調子も、自分を守ろうとする慌ただしさもない。
記録にある日を、そのまま読み上げているだけだった。
「内容は誰が決めた」
「エーリヒ様からご希望を伺い、私が文章として整えました」
「アエミリアが浪費を認めることも?」
「はい」
「婚約を解消することも?」
「はい」
「持参金の一部をハルデンブルク家へ残し、後から争わせないことも?」
「そのように伺いました」
ヴァンフリートはそれ以上尋ねなかった。
「お前が知ってるのは、そこまでだな」
「はい。内容が事実であるかは存じません」
「それでいい。お前は頼まれた文章を書いた。未来の浪費まで予言したわけじゃない」
ヘニングが席を離れると、和解書と業務控えだけが残った。
二つの日付は同じだった。
そしてどちらも、エーリヒが浪費を知ったと証言した朝より、一週間早い。
「念のために作らせた文書です」
エーリヒが言った。
先ほどより声が乾いていた。
「婚礼費が増えていることには以前から不安がありました。問題が深刻になった場合へ備えて、草案だけを用意したのです」
「さっきは、その朝まで結婚するつもりだったと言った」
「結婚する意思があっても、将来の問題へ備えることはあります」
「アエミリアを浪費家として破談するつもりはなかったとも言った」
「その時点で、破談を決めていたわけではありません」
「決めてない破談の和解書に、もう原因まで書いてある」
「可能性の一つとしてです」
「一週間後に初めて知る浪費を?」
エーリヒは唇を結んだ。
相手方の代言人が立った。
「家を守る立場にある者が、想定される紛争に備えて文書を用意すること自体は、不自然ではありません」
「なら、浪費を知る前から破談を考えていたことになる」
ヴァンフリートが言った。
「それは今の証言と合わない」
「備えることと、決めることは別です」
「便利な意味だな。質問されるたびに中身が変わる」
エーリヒが机へ手をついた。
「私は家を守ろうとしただけです」
「誰から?」
「過度な支出からです」
「お前が使った金だ」
「アエミリアが署名した」
「またそこへ戻るのか。自分で使い道を決めたと認めたばかりじゃないか」
「彼女の承認の範囲でした」
「じゃあ浪費したのはお前じゃないのか?」
「そういう意味ではない」
「ほら、また意味が逃げた」
ヴァンフリートは和解書を持ち上げた。
「紙は一週間前から同じことを言ってるのに、お前だけが忙しいな」
傍聴席から小さな笑いが漏れた。
エーリヒが振り返ると、笑いは止んだ。
夜会では、その顔が向けられただけで人々は彼へ同情した。
今は、誰も目を逸らさなかった。
ヴァンフリートは声を荒らげなかった。
新しい推理も、新しい証拠も足さなかった。
「アエミリアの署名は本物だ。金が出たのも本当。こいつがリーナを侮辱したのも本当だ」
最初から変わらない事実が、法院の中へ戻ってきた。
「だが、金の使い道を決めたのはお前だ。古い借金を返し、自分の屋敷を直し、リーナへ衣装と宝石を贈った。夜会より前から、アエミリアの署名だけを人に見せて、浪費に困っている婚約者を演じた」
夜会に先立ってエーリヒから相談を受けた客たちの言葉は、すでに記録されていた。
アエミリアを傷つけずに支出を控えさせたい。
本人に悪気はない。
婚礼となると金銭感覚が変わるらしい。
どの言葉も露骨な中傷ではなかった。
そのために、よく広がった。
「最後に、お前が選んだ深紅の衣装をリーナへ着せた。アエミリアが怒れば嫉妬深い女になる。身分を使って侮辱すれば、傲慢な女にもなる。そこでお前は、浪費に耐えかねた婚約者として破談を言い渡した」
「憶測だ」
「なら、この紙は何だ」
ヴァンフリートは和解書をエーリヒへ向けた。
「夜会で起きることを知らなかったお前が、一週間前から同じ結末を書いてる。偶然にしちゃ、ずいぶん文章が上手い」
エーリヒは答えなかった。
「お前がやったのは、偽物を作ることじゃない。本当の事実を、自分に都合のいい順へ並べることだ」
ヴァンフリートは和解書を裁定官の前へ戻した。
「署名した女を、使った女にした。怒った女を、脅した女にした。先に破談を決めた男を、最後まで耐えた被害者にした」
法院は静まり返っていた。
「嘘をつかない詐欺師ってのは厄介だな。騙された方まで、半分は本当だと思って黙る」
エーリヒの顔には、もう穏やかな悲しみも、疲れた思いやりも残っていなかった。
ただ、自分へ向けられた視線をどう退ければよいか分からない男が立っていた。




