第4話
六百枚の代わりに届いた手紙を、マティルデはずいぶん丁寧に保管していた。
薄い布を張った箱から取り出す時も、爪が紙へかからないようにしていた。
折り目に沿って開かれた便箋は、その部分だけ柔らかくなっている。
何度も読み返したものらしかったが、机へ置くと、彼女はもう文面を見なかった。
窓の外では、庭木から遅い雫が落ちていた。
雨の上がった空が西から明るくなり、向かいの屋根だけを照らしている。
応接間には暖炉の火があったものの、窓に近いマティルデの椅子までは、その赤みが届かなかった。
「私の訴えを取り下げるように、というお話でしょうか」
ヴァンフリートは椅子へ腰を下ろした。
「まだお前の話も聞いてない。先に取り下げさせるほど、俺は器用じゃない」
「アイスベルク先生の代言人だと伺いました」
「そうだ」
マティルデは手紙の向きを変えた。自分の側にあった宛名が、ヴァンフリートの前へ来た。
「では、これもご覧になってください」
アエミリアは鞄から紙を出したが、すぐには筆を取らなかった。
ヴァンフリートが手紙を読む間、マティルデは肘掛けに手を置いて待っていた。
暖炉で薪が燃える音がしても、そちらへ顔を向けることはなかった。
差出人はリューベックだった。
フリードリヒ卿は清算金の支払いを拒絶している。
引き続き翻意を促すが、当事者同士の直接交渉は感情的な対立を深めるおそれがあるため、控えるように。
その判断には、アイスベルク女史も同意していると書かれていた。
「婚約を終えること自体に、争いはあったか」
「ありません。清算の額も、双方で合意しています」
「その書面は」
マティルデは同じ箱から、もう一枚出した。
六百枚を支払うという条項の下に、両者の署名があった。ヴァンフリートは金額だけでなく、支払いの期限まで確かめた。
「一枚も受け取ってないんだな」
「はい」
「現金でなく、品物や債務の肩代わりで済ませた分は」
「何もありません。そうした変更を受け入れたこともありません」
アエミリアはそこで筆を取った。
マティルデの話す速さに合わせて書きながら、時折、言葉を確かめた。
金を受け取る窓口になるはずだった家令にも会わせてもらい、清算金が届いた記録のないことを確認した。
家令が退くと、マティルデはようやく椅子へ深く座り直した。
「期限が来ても届かないので、何度か問い合わせました。そのたびに、もう少し待つようにと。私から連絡すれば、まとまりかけた話まで壊れると言われていました」
「誰に?」
「リューベック卿です」
「フリードリヒ本人が、払わないと言うのを聞いたことはあるか」
マティルデは答えかけて、唇を閉じた。
少ししてから首を横に振った。
「ありません。でも、あの方の正式な代言人ですから」
「正式な代言人だって、口は本人のものだ」
ヴァンフリートは、手紙の末尾へ指を置いた。
「こっちは。アイスベルク本人に、この判断を聞いたか」
「……いいえ」
庭から、雫の落ちる音がした。植込みの下に置かれた空の鉢へ落ちているらしく、時々、乾いた響きが混じった。
「リューベック卿だけのお話なら、これほど待たなかったと思います」
マティルデは言った。
「相手方の代言人ですもの。フリードリヒ様に有利なことをおっしゃるのは、分かっています。ただ、アイスベルク先生も清算の内容を確かめてくださっていると聞いて、それなら、と」
「その名前があれば、待てたか」
「少なくとも、何も知らないまま私だけが損をすることにはならないと、思いました」
アエミリアの筆が、行の終わりで止まった。
マティルデはそれを見て、少し顎を上げた。
「名前を信じた私が浅はかだった、とおっしゃるのですか」
「信用される名前を使った奴の話をしてる。お前を叱っても六百枚は出てこん」
ヴァンフリートは手紙を机へ戻した。
「これを写させてくれ。文面をそのまま、日付も」
マティルデが頷くと、アエミリアは便箋を自分の前へ寄せた。柔らかくなった折り目がまた閉じようとするので、端をそっと押さえた。
「新聞には、支払ったと書いてありましたね」
マティルデが言った。
「そう書いてあった」
「あの方が、払ったと」
「今度はその話を聞く」
マティルデは窓の方を見た。
西日の当たっていた屋根は、いつの間にか灰色へ戻っていた。庭の雫だけが、まだ同じところへ落ちていた。




