第1話
シグルーンの逮捕を告げる声は、法院の鐘より早く通りを渡った。
「氷姫アイスベルク逮捕! 巨額清算金の詐取に共謀の疑い――!」
昨夜の雨が、石畳の継ぎ目に細く残っていた。
軒から落ちる雫を避けて歩いていた人々が、少年の掲げる新聞へ顔を向ける。
馬車の窓がひとつ開き、手袋をはめた手が伸びた。
紙束から抜かれた一枚が朝の風にはためくと、それまで窓に映っていた曇り空が、黒々とした見出しに隠れた。
アエミリアは机に広げかけていた書類を押さえ、そのまま手を止めた。
少年は法院の石段へ駆け上がろうとしていた。呼び止める声が幾つも重なったため、どちらへ振り向けばよいのか分からず、半ば横向きになって紙を配っている。
「一部、ください」
受け取った新聞には、刷ったばかりの油の匂いがあった。
アエミリアは見出しを読み、その下へ目を移した。机まで戻ってきても、紙を差し出そうとしなかった。ヴァンフリートが向かいから手を伸ばす。
「貸せ。お前の顔を見てても続きは読めん」
「……シグルーン様が」
「そこまでは通り中が知ってる」
新聞の端には、アエミリアの指の跡が小さく残った。
ヴァンフリートは紙を机へ置き、風で持ち上がる角をインク壺で押さえた。
婚約解消に伴う清算金六百枚を巡り、王都法院登録代言人ヘルマン・フォン・リューベックと、シグルーン・フォン・アイスベルクの両名が拘束されたとある。
金を支払ったと申し立てているのは、フリードリヒ・フォン・ノルデンフェルト。
受け取っていないと訴えたのは、その婚約者だったマティルデ・フォン・ローゼンベルクだった。
両者の間で清算を扱い、六百枚を受領したリューベックは、アイスベルクとの共同受任だったと供述している。
記事はさらに、過去の依頼人のなかにも、アイスベルクが確認した、あるいは監修した案件だと説明を受けた者が複数いると伝えていた。
「一件だけでは、ないのですね」
アエミリアが言った。
ヴァンフリートは記事の末尾まで読み、もう一度、金を受け取った男の名へ戻った。
「本人がそう言ってるのか、本人の名前がそう言ってるのか。新聞じゃ区別がつかんな」
「先生は、リューベックという方をご存じですか」
「名は知ってる。看板も出してる。俺より屋根のある仕事だ」
軒から落ちた雫が、机の脚の傍で弾けた。
アエミリアは、通りを見た。
新聞を買ったばかりの二人の男が、歩きながら頭を寄せていた。
一人が何かを言って笑い、もう一人は紙面を指で叩いた。その指の下に誰の名があるのか、ここからでも分かった。
「あのアイスベルクが」
年嵩の書記が、信じかねるように言った。
その隣では、若い代言人が薄く笑った。
「女が法律を扱えば、結局こうなる」
ヴァンフリートは新聞を畳み、その男へ顔だけを向けた。
「逮捕されるまで女だったのを忘れてたのか。便利な記憶だな。次は男が捕まったら、男に法律を扱わせるなと言ってみろ」
若い代言人は何か言い返しかけたが、相手が誰かに気づくと、そのまま新聞へ顔を隠した。
アエミリアが小さく息を吐いた。
「先生は朝から敵を増やすのがお好きですね」
「増やしてない。ああいうのは最初から敵だ。今朝ようやく鳴いたから居場所が分かった」
ヴァンフリートは新聞を畳んだ。
「会いに行かれますか」
「俺たちが驚いたからって、向こうに面会の用事ができるわけじゃない」
ほどなく、濃い外套を着た女が人波を抜けてきた。急いでいるはずなのに歩調は乱れず、ただ革手袋の縫い目だけが、強く握られた指の形に白く伸びていた。
机の前まで来ると、女はまずヴァンフリートへ、次にアエミリアへ一礼した。
「ローエンハイム卿でいらっしゃいますか」
「借金取りなら、違う」
「シグルーン・フォン・アイスベルク様にお仕えしております、エルナと申します」
「なら借金取りより面倒だな」
エルナは眉一つ動かさなかった。白い息だけが、返事より先に二人のあいだへ流れた。
声は思いのほか整っていた。
「シグルーン様から、お伝えするよう申しつかりました」
ヴァンフリートは顔を上げた。
エルナはそこで一度、息を継いだ。
「ローエンハイム卿に、刑事代言をお願いしたいと。そうお伝えするようにと」
通りの向こうで、また新聞売りが叫んだ。
エルナの目が、机の上の新聞へ落ちた。見出しを確かめるほどの間もなく、すぐヴァンフリートへ戻る。
「本日、勾留についての審問があるそうです」
「いつだ」
「昼過ぎと伺いました」
ヴァンフリートは椅子を引いた。
「アエミリア、紙と筆を持て」
「受けるのですか」
アエミリアが尋ねた。
「まだだ。依頼人になるかもしれない女の話を聞くだけだ」
「シグルーン様が依頼するつもりだと、今――」
「依頼するのは向こうの自由、受けるのも俺の自由だ」
アエミリアは、机に広げた書類を手早く重ねた。新聞もその間へ挟もうとして、思い直し、別に畳んだ。
エルナが一歩退いた。
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
「案内しろ。歩きながら、お前が自分で見聞きしたことを話せ」
「新聞に出ていることも――」
「新聞はもう読んだ。お前まで印刷物になるな」
エルナの口元が、かすかに動いた。笑うには至らなかったが、留め具を握っていた手はようやく下りた。




