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第18話

「全部か」


 閉廷の声が落ちると、ヴェンツェルが身を寄せてきた。


「全部だ」


「私に来た請求は?」


「なくなった」


「立て替えた金は?」


「精算される」


「あの二人の話も?」


「訂正させる。聞こえてただろ」


 ヴェンツェルはしばらく黙り、それから、深く椅子へもたれた。


「確認だ。大切なことは、二度聞く」


「報酬の残りを払え」


「一度で聞こえた」


 立ち上がった人々の間を、ヴァンフリートは向かいの席へ歩いた。


 シグルーンは訂正文を作っていた。

 最初の通知を脇に置き、一節ずつ確かめて書いている。

 ヨハンナとルイトポルトは、その後ろで待っていた。


「こちらを」


 差し出された紙には、夜の訪問と支払いが救援のためだったこと、少年が給金を受ける小姓として雇われたことが記されていた。

 不貞と血縁の告知は、明確に撤回されている。


 母子の名はなかった。


「お前の署名も入れるのか」


「最初の通知へ署名したのは、私です」


 シグルーンは答えた。


 ヴァンフリートが紙を返すと、彼女はその下へ自分の名を書いた。

 筆を置いても、しばらくは署名から目を離さなかった。


「完敗ですわ」


「ああ」


「少しくらい、否定してくださっても」


「負けたばかりで、また嘘を聞きたいのか」


 シグルーンの口元がわずかに動いたが、笑いにはならなかった。


「彼なら、やりかねないと思いました」


「俺も思った」


 彼女が顔を上げた。


「だから医者と大家に聞いた。あいつの評判を聞いても、仕事にならん。悪口なら本人がいくらでも裏づけてくれる」


 向こうで、ヴェンツェルが家令へ、返ってくる品物の保管場所まで指図していた。


 シグルーンはその姿を一度見て、視線を戻した。


「こちらは、今日中に手配します」


 ヴァンフリートは頷いた。


 ヨハンナが訂正文へ署名する間、ルイトポルトは黙って待っていた。

 妹から筆を受け取ると、使い慣れた右手を一度開き、包帯の下の傷を庇いながら自分の名を書いた。


 その筆先を見届けてから、ヴァンフリートは依頼人の席へ戻った。


 ヴェンツェルは訂正文を受け取ると、母子についての箇所を先に読んだ。

 自分の精算の紙は、その下へ置いたままだった。


「よろしい」


「金の方は後か」


「そちらは、屋敷でゆっくり読む」


 彼は二枚を揃え、家令へ渡した。


「折るな。ちゃんと持っていろ」


 法院の外には、昼の明るさが広がっていた。


 朝には濡れていた石段も、日を受けるところから白く乾いていた。

 人々が話しながら降りてゆくと、その足元を風が抜け、並木の下へ落ちた葉を一枚ずつ裏返した。


 ヴェンツェルは途中で立ち止まり、入口を振り返った。


「剣を忘れた」


「今日くらいは、忘れたままでも困らんだろ」


「高かったんだ」


 家令が取りに戻ると、彼は安心したように階段を降りた。


 少し離れた並木の脇に馬車が停まり、その陰から、小姓姿の少年が顔を出した。


「旦那様」


 走りかけて、すぐに歩き直した。


 ヴェンツェルは、それを見ただけで眉を寄せた。


「何をしている」


「御者と一緒に待っていていいと、家令に言われました」


「勝手なことを。主人の疲れた顔を見て、何が面白い」


「勝ちましたか」


「当然だ」


 返事だけは早かった。


 少年は笑いかけたが、すぐに、確かめるような顔へ戻った。


「母さんのことも、もう悪く言われませんか」


 ヴェンツェルは彼を見下ろした。


 さっきまで金額を確かめるたびに動いていた口が、少しの間、動かなかった。


「言った連中に、間違いだったと知らせてもらう」


 ヴァンフリートが答えた。


「お前と母親の名は出さない」


 少年は頷いた。上着の裾を握っていた手をゆっくり離し、もう一度頷いた。


「母さんに、言ってきてもいいですか」


「仕事の途中だぞ」


 ヴェンツェルが言った。


 少年は口を開きかけたが、すぐに閉じた。


 ヴェンツェルは御者を呼び、馬車を先に屋敷へ戻すよう命じた。

 戻ってきた家令にも、自分の剣を預けた。


「私は歩く。あいつを寄り道させるから、お前たちは先へ帰れ」


 少年が顔を上げた。


「一緒に来てくださるんですか」


「途中までだ。いつまでも戻らなければ、小姓の仕事が溜まる」


「ありがとうございます」


「礼なら、あの男に言え。私が金を払ったが、喋ったのはあいつだ」


 少年がヴァンフリートへ深く頭を下げた。


 ヴァンフリートは少し顔を背けた。


「主人が払ったのは前金だけだ」


「残りは今日、届けさせる」


 ヴェンツェルが遮った。


「子供の前で取り立てるな」


「お前が約束を守るところを見せてやれ」


「旦那様は、守ります」


 少年が言った。


 ヴェンツェルは咳払いをし、帽子を被った。折れた縁が斜めに下がったが、今度は直さなかった。


「聞いたか。使用人の信頼が厚い」


「給金を上げてやれ」


「金に換算するな。こういうものは」


 少年が笑った。


「やっぱり、僕の英雄です」


「当然だ。忘れるなよ」


 ヴェンツェルは顎を上げたが、少年がその顔を見上げ続けると、すぐに通りの先へ目を逸らした。


「行くぞ。日が暮れれば、また夜に通ったと騒がれる」


「今日は、お見舞いですか」


「散歩だ」


「母さん、きっと喜びます」


「散歩だと言っている」


 少年が歩き出すと、ヴェンツェルもその隣へ並んだ。


 風に追われた葉が二人の靴先を横切った。少年は踏まないように足を運び、その分だけ遅れてしまうと、慌てて主人へ追いつこうとした。


 ヴェンツェルは急げと言わなかった。


 次の角までに、少年が足を速める必要はなくなっていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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