第16話
ヨハンナが証言席へ立つと、アエミリアは婚礼費用の明細を開いた。
調査の記録とは違い、その紙には細かな数字が長く並んでいた。
ヴェンツェルは、ようやく自分にも読める話になったというように、少し前へ身を寄せた。
「医者の話は、お前も聞いたな」
ヴァンフリートが尋ねた。
「聞きました」
「通知を出す前に、目を通したか」
「はい」
「医者から聞いた話が、そこにないことも分かった」
「兄に、任せておりました」
「だから聞いてる。お前は、読んでどうした」
ヨハンナは机の上の通知を見た。
「……訂正は求めませんでした」
ヴァンフリートは頷き、別の紙を差し出した。
「この衣装の生地代は、お前のものだな」
「そうです」
婚礼を取りやめることで使えなくなったものとして、代金の全額が請求されていた。
「注文を取り消したか」
「引き取ってはいません」
「取り消したかと聞いた」
「取り消しては、いません」
アエミリアが仕立屋の注文票を渡した。その上へ、後から店に届いた指示の写しが重ねられた。
注文の番号と生地の分量は一致していた。店主が写しを確かめた旨も付され、裁定官は両側へ同じものを渡させた。
ヨハンナは署名を見つめた。
「お前が出した指示だな」
「はい」
ルクセンベルク家の紋章を刺繍しないこと。
衣地と注文はそのまま留め置き、次の縁談が整い次第、改めて指示をすること。
店へ宛てた言葉には、誰かを傷つける響きはなかった。
買ったものを無駄にせず、次の用事に回そうとする、ごく日常の指図だった。
その日付は、医師の話を聞いた五日後だった。
「この生地は、別の婚礼にも使うつもりだった」
「使えるものを、捨てる必要はないと思いました」
「俺もそう思う。では、使えなくなった代金を、なぜあいつに請求した」
ヨハンナの頬に、薄く赤みが差した。
「初めは、ヴェンツェル様との婚礼のために買ったものです」
「今もお前のものだ。布を持って、代金も取るのか」
シグルーンが明細へ目を落とした。
筆先が止まり、それから、衣地の代金を記した一行へ線が引かれた。
「この購入代は、請求から外します」
ヴェンツェルが小さく口を開いた。
何か言おうとしたが、ヴァンフリートは彼を見ず、ヨハンナへ問いを続けた。
「新しい縁談が来ていたんだな」
「お話はありました」
「いつからだ」
「医師に会う、二日前です」
「どういう条件だった」
ヨハンナは背筋を伸ばした。
「今の婚約が、適法に解消されることです。わたくしは、婚約中に他の方と交際したわけではありません」
「そこは聞いてない。ほかの条件は」
「わたくしに、破談の原因がないこと」
「それで、先方へ何と返事をした」
彼女は兄の方を見なかった。
「婚約者の不実によって、解消を求めると」
「その返事を出すことは、お前も承知していた」
「はい」
「医者に会った後だな」
「そうです」
窓から差す日が、証言席の縁を離れようとしていた。
ヨハンナはそこへ指を置き、既に温かさの薄れた木に触れた。
「わたくしは、あの方と結婚したくありませんでした」
「それは、あいつも同意してる」
「あの方がどんな方か、あなたにもお分かりでしょう」
ヴァンフリートは依頼人を見た。
ヴェンツェルは、線を引かれた衣地の代金をまだ眺めていた。
自分へ視線が来たことに気づき、急に顎を上げた。
「分かってる。俺も結婚したくない」
「お前には申し込んでいない」
ヴェンツェルが言った。
裁定官が彼を見た。ヴェンツェルは即座に口を閉じた。
ヨハンナは笑わなかった。
「でしたら、わたくしの気持ちも分かるはずです」
「気持ちを否定しに来たんじゃない。お前の請求を退けに来た」
「わたくしが望まないというだけで終わらせれば、こちらが費用を負わなければならないのです。家同士の約束を、わたくしの都合で壊したと言われます」
「新しい縁談にも障る」
ヨハンナは、返事の前に唇を噛んだ。
「はい」
「あいつの不貞なら、どちらも避けられる」
「疑われるようなことをしたのは、あの方です」
「だから調べた。その後の話をしてる」
彼女の指が、木の縁から離れた。
「医者の話を聞いた。病人と子供を助けた事情を知った。それでも、あいつが嫌いなことは変わらなかった」
「変わりませんでした」
「なら、嫌いなまま別れればいい。あいつのしたことまで変えるな」
ヨハンナは顔を上げた。
しばらく何かを言おうとしていたが、結局、言葉は出なかった。
その後ろで、ルイトポルトが立ち上がった。
「妹は、あの男のために十分苦しんだ。それを、このような場で辱めて――」
「お前が医者の話を聞いてから、決闘まで何日あった」
ヴァンフリートが遮った。
ルイトポルトの声が止まった。
「何の関係がある」
「お前が誰の名誉を守ったのか、確かめてる」
裁定官が、ルイトポルトを再び証言席へ呼んだ。
ヨハンナは兄の傍を通って、自分の席へ戻った。二人は目を合わせなかった。
「あの母親を、金で囲われた女と呼んだな」
ヴァンフリートが尋ねた。
「言った」
「子供を私生児と呼んだ」
「……言った」
「それは、医師に会った後だな」
「そうだ」
ヴェンツェルの手が、帽子の上で止まった。
「取り消せと言われたか」
「言われた」
「何を取り消せと?」
ルイトポルトは返事をしなかった。裁定官が同じ問いを繰り返すと、ようやく答えた。
「あの二人への言葉を」
「お前がヴェンツェルを臆病者と呼んだことについては、どうだった」
「それについては、反論しなかった」
「否定しようがないからな」
ヴァンフリートは、依頼人へ目を向けなかった。
「自分の悪口だけなら、あいつは帰れた。病人と子供に貼った嘘を取り消さないから、剣を取った。その経緯を、お前の通知は何と書いた」
ルイトポルトは黙っていた。
ヴァンフリートが読み上げた。
「不貞を責めた婚約者の兄と争い、これを負傷させた」
紙を置く音は、小さかった。
「争ったことは本当だ。傷も本物だ。何のために争ったかだけ、ここでも消した」
「私は、妹の名誉を――」
「お前の家の名誉は、病人と子供を踏み台にしないと届かないほど、高いところにあるのか」
ルイトポルトの顔が赤くなった。
その手が動いた先に、剣はなかった。
ヴァンフリートは彼を追わず、裁定官へ向き直った。
「決闘の勝ち負けで、不貞の有無を決めろとは言わない。だが、争いの理由を省いて、不貞の証拠に使うことも認めるな」
ルイトポルトは、包帯の手を自分の脇へ戻した。
その白さだけが、まだ法廷の中で目立っていた。




