第14話
家主は証言席の前で一度立ち止まった。
昨日まで自分の家の戸口で話していたことが、こんな広い部屋で聞かれるとは思わなかったらしい。
裁定官に促されると、上着の裾を引き、ようやく席についた。
ヴァンフリートは、彼の署名した紙を見せた。
「これは、お前が読んで署名したものだな」
「はい。間違ったことは書いてありません」
「家賃を払ったのは、何度だ」
「一度です。滞っていた二月分を」
「その後の家賃も、ヴェンツェルが払い続けたか」
「いいえ。あとは、あの母親から受け取りました」
「聞き取りに来た男にも、そう話したな」
「帳面を見せました」
家賃帳が開かれた。家主の指は、使いから金を受け取った一行を辿り、その下に続く月々の支払いへ移った。
シグルーンは、自分の資料の、生活費及び家賃を負担、という箇所へ目を落とした。
「この紙には、滞納分を一度払ったことが書かれてない」
ヴァンフリートが言った。
「払ったことは本当でしょう」
「そうだな。お前が受け取ったことも本当だ。そこで話を止めれば、お前もあいつに養われた男になる」
「私は、家賃を受け取っただけです」
「その説明を付ければな」
家主の口が開きかけ、閉じた。
ヴァンフリートは紙を机へ戻した。
「最初の夜、医者が一緒だったことは話したか」
「話しました。従僕の方も来ていましたし、病人の部屋へ薬や水を運んでいましたから」
「病気になる前にも、あの男が通っていたと答えたか」
「いいえ。その前は見た覚えがないと言いました」
「それは、なぜ書かれていない」
家主はシグルーンを見たが、彼女も返事を待っていた。
「見なかったというだけでは、確かなことは言えないから、と。来たことの方を書きましょうと言われました」
「医者の同行も、確かじゃなかったのか」
「それは、見ています」
「支払いが一度だけだったことも」
「帳面にあります」
「お前の記憶が曖昧だったから、外されたわけじゃないな」
「……はい」
家主は、署名のある紙をもう一度見た。
「どれも、その方には話しました。ですが、全部書けば長くなるし、必要なことだけでいいと仰ったので」
「必要なことを決めたのは、誰だ」
「ペグニッツ家の書記の方です。ルイトポルト様へお渡しすると言っていました」
シグルーンが顔を上げた。
「この紙のほかには、何も知らないと答えたことはありませんね」
「ありません」
彼女は小さく頷いた。机へ戻した紙の角が、隣の一枚と揃わなかった。
それを直そうとして、途中で手を止めた。
次に立った野菜売りの女は、証言席の高さを確かめるように、縁へ指先を置いた。
普段なら葱や菜を並べている時刻だった。
袖口を無意識に捲りかけ、それに気づいて、ゆっくり下ろした。
「お前のところへも、同じ男が来たな」
「ああ。あの大家が連れてきたよ」
「何を聞かれた」
「馬車が来た晩のこと。それから、母親がその男を迎えに出たか、子供は前からその男を知っていたか」
「どう答えた」
「あたしが見たのは、子供が雨の中を走っていくところからだよ。どこへ行くんだと聞いたら、前に助けてくれた人を頼るんだと言った。帰ってきた時には、医者も一緒だった」
女は言葉を切り、傍聴席の方を一度見た。
「母親は、迎えになんか出ちゃいない。あの晩は、起き上がることもできなかったんだから」
「それを、聞き取りに来た男へ全部伝えたか」
「伝えたよ」
「署名は?」
「しなかった」
ヴァンフリートは待った。
女は、自分の手の甲へ浮いた血管を親指でなぞった。
「書いてあるのを読んでもらったら、夜に男が通っていたという話だけになっていた。だから、子供が助けを呼びにいったことも書いてくれと言ったのさ」
「書き直したか」
「子供の言い分までは書けない、と。それならあたしも名前は書けないと言った。間違ったことがなくても、あれじゃ、あたしのした話じゃなかったからね」
窓から差した日が、女の袖口の白い擦れを照らしていた。
「部屋の中のことは知らないよ。見ていない晩のことも、知らない。ただ、知っていることまで削って、知らない話にされるのは困る」
シグルーンは、もう紙をめくらなかった。
女が証言席を離れると、書記官の呼ぶ声に従って、ルクセンベルク家の家令が進んだ。
少年の雇用書面と給金の帳簿が照合され、母親の同意も確かめられた。
衣食住のほかに読み書きと計算の教育が与えられ、その費用は少年の給金から引かれていなかった。
ヴェンツェルは、そこで椅子へ深く座り直した。
「そこは読まなくても分かるだろう」
「お前が黙ってると、屋敷の帳簿がよく喋るな」
「余計なことまで書きすぎだ。会計係を叱っておく」
ヴァンフリートが顔を向けると、彼は上衣の前を直し始めた。
「給金から引けば、小姓が辞める。損得の話だ」
「聞いてない」
「聞かれる前に説明した。文句はあるまい」
その時、シグルーンが立った。
「不貞を理由とする主張を撤回します。少年を実子とする告知についても、維持する根拠はありません」
ルイトポルトが身を乗り出した。
「勝手に――」
「この証言と記録を踏まえて、なお不貞を事実として主張することはできません」
彼女は裁定官へ向いていた。
「ただし、事情が分かる以前にヨハンナ様が不信を抱いたことには理由があります。婚約者として十分な説明がなかったことによる信頼の喪失について、費用の負担を求める余地はあると考えます」
ヴァンフリートが立った。
「では、いつまで事情が分からなかったのか、本人に聞こう」




