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第9話

 翌朝、診療所の窓には、まだ内側から灯がともっていた。


 硝子を曇らせていた湯気が少しずつ引くにつれて、窓辺に吊るされた薬草の葉が、外の薄明かりへ輪郭を返していた。

 通りではパンを積んだ荷車が止まり、店の戸を叩く音が、冷えた空気を遠くまで渡った。


 老医師は二人を見ると、昨夕しまった診療帳を、また棚から下ろした。


「書き落としがありましたか」


「俺のじゃない」


 ヴァンフリートは、婚約解消の通知を机へ置いた。


「お前が話したことのうち、こいつに書き落とされたものを確かめたい」


 医師は眼鏡を掛け、差し出された紙を読んだ。読み進む間に、口元の皺が次第に深くなった。


「このような話になっていたのですか」


「世間じゃ、お前が病人を治してる間に、俺の依頼人が愛人を囲ったことになってる」


「私は、そうは申し上げていません」


「誰に、何を言った」


 アエミリアが新しい紙を開いた。


 医師は診療帳の余白へ指を置いた。

 ペグニッツ家の使いに帳面を見せた日付は、通知が書かれた日より十二日早かった。


「使いの方が来られたのは、この朝です。患者を診終えた後に、記録をお見せしました」


「家の名は、そいつがそう名乗っただけか」


「紹介の書面を持っていました。それから、午後には私自身があちらへ呼ばれましたので」


 医師は引出しから、細く折った紙を出した。


 長く挟まれていたためか、折り目が柔らかく白んでいた。

 末尾にはペグニッツ家の印があり、診察について話を聞きたいので、午後に迎えの馬車を寄越す、とあった。


「診察のためではなく?」


 アエミリアが尋ねた。


「ええ。あの母親を治療した経緯についてです」


 ヴァンフリートは椅子を引いた。


「迎えに来た者から順に話せ。お前が見ていないところは、見ていないままでいい」


 医師は眼鏡を少し上げた。


「それで、お役に立ちますか」


「人間が見てないところまで喋るから、俺に仕事が来る。今日は医者にまで商売を広げる気はない」


 窓の外で、荷車が動き始めた。


 アエミリアは、医師が思い出すのを待ってから書いた。

 言い直した箇所には線を引き、日付を確かめる時には、診療帳をもう一度開いてもらった。


 話を聞き終える頃には、窓辺の灯が朝の光に負けていた。


「法院でも、今のことを話してもらう」


 ヴァンフリートが言った。


 医師は返事をする前に、通知の中の、若い女という文字へ目を落とした。


「患者の名は出さずに済みますか」


「そこは俺が申し立てる。お前には、病気と、聞かれて答えたことを話してもらうだけだ」


「では、参ります」


 医師は診療帳を閉じた。


 古い革の表紙に置かれた手には、爪の際までよく洗ったための細かな荒れがあった。



 職人街へ着くと、家主は入口の前で落葉を掃いていた。


 濡れた葉が箒へまとわりつくたび、男は階段の角へ柄を打ちつけた。

 その苛立った音が、ヴァンフリートたちを認めると止んだ。


「また何か」


「昨日の話を法院でしてもらう」


 家主は箒を立てた。


「私は別に、争いに加わるつもりは」


「噂には加わっただろ」


「あれは、聞かれたから話しただけです」


「今度も同じだ。聞かれたことに答えろ」


 家主の目が、通りの左右へ逃げた。


「ペグニッツ家の方にも、ちゃんと答えましたよ。あちらへ渡した紙にも、名前を書きました」


「何を書いた」


「貴族様が夜に来ていたことと、家賃を払ったことです。あの家の方が書き取って、私は読んでから署名しました」


「そのほかに話したことは」


「ありますが、全部書けば長くなるでしょう」


「何を省いた」


 家主はしぶしぶ箒を壁へ預けた。


 昨日は建物の外までよく響いた声が、今朝は戸口を出なかった。

 アエミリアは男を急かさず、家賃帳を持ってきてもらった。

 どこまで自分の目で見たかと、何を聞かれて答えたかを分けて尋ねると、家主は同じところで何度か考え込んだ。


 向かいの野菜売りの女は、二人が出てくるのを見て、葱を束ねる手を止めた。


「今度は、あたしの番かい」


「お前のところにも来たんだな」


「ああ。あんたより、よほど行儀のいい聞き方だったよ」


「答えも行儀よく直されたか」


 女は葱の先を揃えた。


「あたしは、言ってもいないことに名前は書かないよ」


 ヴァンフリートが足を止めた。


 女は、結びかけていた紐を強く引いた。葱の白い肌に、細い跡が付いた。


「ただ、言ったことを全部書いてくれるとも限らないみたいだわね」


 アエミリアは閉じかけた紙を、もう一度開いた。


「安心しろ。俺は言ったことしか書かない。誠実なのが俺の美点だ」

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