第7話
医師の診療所には、乾かした薬草の匂いが染みついていた。
診療帳を開いた老医師は、母親を診た夜をすぐに思い出した。
「危ない状態でした。高い熱が続き、水も満足に取れなくなっていました。あと一日遅ければ、どうなっていたかは分かりません」
「ヴェンツェルと母親が、以前から親しいように見えたか」
「いいえ。あの方は、わたしに患者の名を尋ねました」
「子供の母親の名前も知らなかった?」
「知らなかったのでしょう。病歴も年齢も、息子さんから聞いていました」
「愛人にしては準備不足だな」
「病室へ入るのも嫌がっていましたよ。感染するかもしれない、と」
「それでも朝までいた」
「ええ。帰ると言っては容体を尋ね、容体を答えると、では次に診るまでいると言う。その繰り返しでした」
医師は診療帳の端へ指を置いた。
「薬代と往診料は、その場で支払われました。その後の往診も、ルクセンベルク家の会計からです」
アエミリアは日付を書き取った。
診療帳から薬屋の控えへ辿ると、処方された薬と届けた時刻が一致した。
食料品店の支払いも、母親が固い物を口にできるようになるまでで終わっている。
家賃は滞っていた分だけが払われ、その後の暮らしまで豪奢に支える金は出ていなかった。
事実は、金額よりも日付の中で形を持った。
ヴェンツェルが母親へ金を使い始めたのは、少年が屋敷を訪ねた夜からである。
それより前に、二人のあいだで書簡が交わされた跡も、贈り物が届けられた記録もなかった。
母親が回復すると、夜の訪問は終わった。
代わって残ったのは、少年を小姓として雇った一枚の書面だった。
午後遅く、二人はルクセンベルク家の屋敷を訪れた。
家令が出した雇用の書面には、母親の同意があり、少年の給金と居所が記されていた。
読み書きと計算を教えることも、仕事を覚えるまで年長の従僕を付けることも決められている。
雇った日付は、母親が起き上がれるようになった後だった。
「ずいぶん手厚い小姓だな」
ヴァンフリートが言うと、家令は困ったように眉を下げた。
「旦那様は、字の読めない者を置けば命令を二度言うことになる、と仰いまして」
「計算は?」
「買物の釣銭を誤魔化されれば、屋敷の損になると」
「服は?」
「見苦しい小姓を置けば、主人の評判が落ちるそうです」
「母親への送金は?」
「小姓本人の給金からです。薬が必要な時だけ、旦那様が不足を足しております」
「返させる気は?」
家令は少し迷った。
「旦那様の帳簿では、前貸しになっております」
「返済の欄が空だな」
「それについて尋ねますと、会計係の仕事へ口を出すな、と」
「お前が家令で、あいつが口を出してるんだろ」
「わたしも、そう申し上げました」
開いた扉の向こうから、ヴェンツェルの声がした。
「使用人が主人の悪口を客へ話す屋敷は、給金を見直した方がいいな」
彼は上衣を着替えていたが、昨日の決闘で潰れた帽子だけは手に持っていた。
「朝から嗅ぎ回ったそうだな。私の無実は分かったか」
「お前が母親を囲ってた証拠は出なかった」
「勝ったな」
「お前が善人じゃない証拠は山ほど出た」
「そこは争っていない」
「医者は、お前が朝までいたと言ってる」
「帰る時機を逃しただけだ」
「母親は、お前が金を貸したことにして、一度も返させてないと言った」
「回収には長期的な判断が必要だ」
「少年の雇用書面には、仕事より教育の方が多く書いてある」
「無能な使用人を有能にするには費用が掛かる」
「母親の薬代を、今も足してるな」
「小姓が母親を心配して仕事を誤れば、私が損をする」
ヴァンフリートはしばらく彼を見た。
「お前の慈悲は、必ず損得の後ろへ隠れるんだな」
「慈悲ではない」
「そういうことにしておいてやる」
「しておけ。善人と思われると、知らない子供まで門前へ来る」
「一人来た時は追い返さなかった」
「一人目で失敗を学んだんだ」
その時、廊下の奥から少年が走ってきた。
「ヴェンツェル様!」
「走るな」
少年は急いで歩く姿勢へ直し、その不自然な足取りのままヴェンツェルの前へ来た。
「母さんに薬を届けました。それから、今日は靴も両方磨きました」
「報告は一つずつしろ。聞く方が疲れる」
「この方たちに、決闘のお話を聞きました」
ヴェンツェルの目がヴァンフリートへ向いた。
「何を話した」
「二周半」
少年が答えた。
「誰だ、余計な知識を与えたのは」
「真実だ」
「子供に与える真実は量を選べ。薬と同じだ。多すぎれば毒になる」
少年はヴェンツェルを見上げた。
「でも、最後は勝ったんですよね」
「当然だ」
「やっぱり、僕の英雄です」
ヴェンツェルは咳払いをした。
「その呼び方はやめろ。給金を上げろと言われているようで落ち着かん」
「じゃあ、旦那様」
「それでいい」
少年が去ると、ヴェンツェルはしばらく廊下の奥を見ていた。
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔が笑う準備をしている」
「安心しろ。俺はお前を英雄と呼ぶほど判断力が未発達じゃない」
「子供は素直でいいな」
「お前も、少しは見習え」
「素直な人間は損をする」
「だから善行を全部投資に直してるのか」
「そうだ」
ヴェンツェルは迷いなく答えたが、耳の上だけが、昨日と同じように赤かった。




