第5話
路地の向かいで野菜を並べていた女は、貴族の馬車が夜に来たことを覚えていた。薬屋の小僧は、その夜から数日のあいだ、医師の処方に従って薬を届けたと言った。食料品店にも、病人が口にできる柔らかなパンや果物を届けた控えが残っていた。
大人たちの話は、どれも同じ事実へ戻った。
貴族の男が夜に来た。金が動いた。母親は若く、その息子はやがて男の屋敷へ移った。
その間を、誰も見ていない関係で埋めれば、不貞の話が出来上がる。
「随分、聞き回っているんですね」
背後から少年の声がした。
振り返ると、建物の入口に、小さな籠を抱えた少年が立っていた。
濃紺の上着は新しく、袖だけがわずかに長かった。胸元にはルクセンベルク家の小さな紋章が縫い付けられている。磨かれた靴は左だけ艶が鈍く、ヴェンツェルが昨夜こぼした評価が、そこだけは正しかった。
「お前が、ヴェンツェルの小姓か」
ヴァンフリートが聞くと、少年は籠を抱き直した。
「そうです」
「逃げないんだな」
「どうして逃げるんですか」
「雇い主は昨日、決闘場を二周半したそうだ。教育が行き届いてるかと思った」
少年の顔が明るくなった。
「新聞を読みましたか。ヴェンツェル様は、ものすごくお強いんです。一撃で相手の剣を弾いて、血を――」
「誰から聞いた」
「新聞に」
「新聞は二周半を省いたのか」
少年は眉を寄せた。
「二周半?」
「知らないならいい」
アエミリアが小さく咳をして、ヴァンフリートを止めた。
少年は二人を交互に見た。
「ヴェンツェル様を調べているんですか」
「不貞をしたと言われてる」
「フテイ?」
「母親を愛人にして、お前を自分の子として屋敷へ入れたって話だ」
「先生」
アエミリアの声が低くなった。
しかし、少年は言葉の意味をすべて理解するより先に、母親について何か悪いことを言われていると悟ったらしい。籠を強く抱き、ヴァンフリートを睨んだ。
「あの方は、母さんを助けてくれたんです」
「だから確かめに来た。お前が最初から喋れば、俺も余計な言葉を使わずに済む」
「先生が先に余計な言葉を使ったのです」
「遠回しに聞けば、大人は遠回しに嘘をつく。子供にはまだ早かったらしいな」
「どっちが子供ですか」
少年は警戒を解かなかったが、立ち去りもしなかった。
「母親が倒れた夜、お前がヴェンツェルの屋敷へ行ったのか」
「はい」
「なぜあいつを頼った」
「困ったら来いと言ったからです」
「いつ言われた」
「前に一度、助けてもらった時です」
「何から助けられた」
少年は口を閉じた。
ヴェンツェルから、そこまで話す必要はないと言われているのだろう。ヴァンフリートは追わなかった。
「約束を覚えてたんだな」
「当たり前です」
「言った方は忘れてたぞ」
「嘘です。僕が名前を言ったら、すぐに分かりました」
「顔を見て思い出したとは言わなかったのか」
「門の前にいた僕を、ヴェンツェル様は窓から見ていました」
「自分から出てきた?」
「門番に追い返せと言っていました」
少年は少しだけ笑った。
「でも僕が、困ったら来いと言っただろうと叫んだら、窓が閉まりました。それから、すぐに玄関から出てきました」
「逃げ道を塞がれたわけだ」
「違います。約束を守ったんです」
少年は迷いなく言った。
大人たちが金と夜を結びつけて作った醜聞を、子供はたった一つの約束へ戻した。
「母親のところへ戻った時、ヴェンツェルも一緒だったか」
「馬車に乗せてくれました。僕だけ先に帰すと、途中で逃げるかもしれないと言って」
「お前が?」
「ヴェンツェル様がです。病気がうつるかもしれないから、なるべく離れて座れと言って、馬車の窓をずっと開けていました」
「雨の夜に?」
「寒そうでした」
アエミリアは俯き、笑いをこらえた。
「お屋敷から、どなたか他にも?」
「従僕と、それから途中で医者を乗せました。ヴェンツェル様は家へ入る前に、ここは狭すぎるとか、階段が急だとか、病人はもっと一階に住むべきだとか、ずっと文句を言っていました」
「母親を見てからは?」
「死なれては困る、と言いました」
「なぜ困るって?」
「僕がまた屋敷へ来るからだそうです」
「筋は通ってるな」
少年は真顔になった。
「でも、朝まで帰りませんでした」
路地を抜ける風が、少年の長すぎる袖を揺らした。
「医者が大丈夫だと言うまで、戸口にいました。母さんが水を飲めなくなったら、薬屋を叩き起こせと言いました。家主が出て行けと言ったら、家主を叩き起こせとも言いました」
「本人が看病したのか」
「水差しを持ったら、母さんがこぼしたので、それから触るのをやめました」
「役に立たんな」
「でも、いてくれました」
少年の答えには、新聞が英雄へ与えた勇ましさはなかった。
ただ、雨の夜に来た男が朝まで帰らなかったという、それだけの確かさがあった。




