2-4 うちの結界師になってください
朝食は、昨日より温かかった。
粥は同じ芋粥だった。漬物も同じだった。器も同じ。食堂代わりの小部屋も、壁の染みも、きしむ椅子も変わっていない。
だが、湯気が違った。
昨日の粥は、出された瞬間から冷めていく食べ物だった。今日は違う。器の周囲に薄い保温結界がかかっている。かまどの余熱も逃げていない。芋は昨夜よりやわらかく煮えていた。
アルトは匙を動かした。
「昨日よりうまい」
言った瞬間、向かいに座っていたコハルの耳が立った。
「本当ですか!」
「温かい」
「また温度評価ですか!」
「重要だろ」
「重要ですけど、味もお願いします!」
「芋が前より柔らかい」
「進歩しました!」
コハルは胸を張った。
その顔は、昨夜よりずっと明るい。単に元気というだけではない。目の奥に、何かを見つけた人間の光があった。
アルトは嫌な予感がしていた。
朝食の時点で、すでにコハルの隣には紙が積まれていた。帳簿。古い地図。宿の間取り図らしきもの。どこかから剥がしてきた宣伝札。あと、温泉饅頭の包み紙。
嫌な予感しかしない。
アルトが粥を食べ終えるより早く、コハルは正座の姿勢を整えた。
「アルトさん」
「断る」
「まだ何も言ってません!」
「言う前からだいたいわかる」
「すごいですね。では、わかっているなら話が早いです」
「早くない」
コハルは両手を畳についた。
深く頭を下げる。
「うちの結界師になってください」
アルトは匙を置いた。
「結界師」
「はい」
「宿の?」
「はい」
「聞いたことがない」
「私も初めて考えました」
「だろうな」
コハルは顔を上げた。
表情は真剣だった。
「お給金は、今は出せません」
「雇用条件の最初にそれを言うのは正直だな」
「誠実営業です」
「営業以前の問題だ」
「でも、住み込みです。三食出します。温泉は入り放題です。余った温泉饅頭も付きます」
アルトは少しだけ反応した。
「温泉入り放題」
「はい」
「余った饅頭」
「はい」
「余るのか」
「今は余ります」
「悲しいな」
「これから売り切れます!」
根拠のない前向きさだった。
だが、昨日よりは少しだけ根拠がある。
湯は温かくなった。
廊下も寒くない。
厨房も動く。
保存庫も守られている。
客が来るかは別として、宿としての最低限の体温は戻っていた。
アルトは腕を組んだ。
「仕事量は」
「ちょっとだけです」
「信用できない」
「本当にちょっとです。湯温を保って、すきま風を止めて、客室を快適にして、厨房を保温して、保存庫を守って、屋根の雪を安全に落として、あとできれば町も少し」
「最後が大きい」
「少しです」
「町は少しではない」
「では、町の入口くらいから」
「増えそうだな」
コハルは視線を逸らした。
わかりやすかった。
「アルトさんの結界があれば、八百万亭は変われます」
「それは昨日見た」
「宿だけじゃありません。湯守町も、変われるかもしれません」
コハルは畳の上に地図を広げた。
古い地図だった。湯守町の全体図。中央に石段の通り。その両脇に旅館や土産物屋。少し上がったところに八百万亭。町の奥には源泉小屋。さらに山道へ続く道。
地図の端は擦り切れていた。何度も広げられた跡がある。
「昔は、この通り全部に灯りがついていたそうです。父さんがよく言っていました。夜になると、湯気と提灯で、町全体が金色に見えたって」
コハルの指が、地図の通りをなぞる。
「今は、閉めた店も多いです。旅館も半分は休んでます。土産物屋さんも、饅頭屋さんも、みんなぎりぎりです」
声は明るいままだった。
だが、少しずつ薄くなっていく。
明るさが、無理をして支えているものだとわかる。
「うちの両親が亡くなってから、八百万亭もずっと赤字で。源泉の温度も下がって、お客様も減って。町の人たちも、もう湯守町に期待しなくなりました」
アルトは黙って聞いた。
「でも、私は諦めたくないんです」
コハルは笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「だって、ここしかないので」
静かな言葉だった。
「父さんと母さんが残してくれた宿です。私が生まれて、育った宿です。子供の頃、帳場の隅で温泉饅頭を食べながら、お客様が笑って帰っていくのを見るのが好きでした」
コハルの指が、地図の上で止まる。
八百万亭の場所だった。
「また来るよって言われると、父さんがいつも笑ってました。母さんは、またお帰りなさいませって言えるねって言ってました」
少しだけ、沈黙が落ちた。
外では雪が降っている。
だが、宿の中は昨日より寒くない。
それだけで、話の聞こえ方が変わる。
「私、もう一度言いたいんです」
コハルは顔を上げた。
「お帰りなさいませって」
アルトは、答えに困った。
面倒ごとは嫌いだ。
軍を追い出されたばかりだ。
金はないが、自由ではある。
どこか遠くで、温泉に入って、寝て、食べて、何もしない生活をする。
それが理想だった。
だが、その理想のうち三つが、すでにこの宿にある。
温泉。
寝床。
食事。
しかも温泉は、入り放題。
問題は、何もしない生活ではなさそうなことだった。
コハルは身を乗り出した。
「お願いします。アルトさん。うちにいてください」
「俺は宿の経営はわからない」
「私もあまりわかってません」
「それは問題だろ」
「勉強中です!」
「結界を張ることしかできない」
「それが必要なんです」
コハルは即答した。
「攻撃はできないぞ」
「攻撃される予定はありません」
「たぶん、今後ある」
「その時は防いでください」
「軽いな」
「防げるんですよね?」
アルトは少し黙った。
防げる。
たぶん、ほとんどのものは。
火も。
冷気も。
雪も。
魔物も。
敵意も。
壊れそうなものも。
消えそうな熱も。
ただ、何を守るべきかを決めるのは苦手だった。
魔王軍では、それが問題だった。
だが、この宿では。
守るものは、わりと見えている。
ぬるかった湯。
きしむ廊下。
凍りかけた保存庫。
曲がった看板。
帳場で無理に笑う若女将。
アルトは息を吐いた。
「しばらくなら」
コハルが固まった。
「しばらく」
「そうだ」
「いてくれるんですか」
「朝飯と温泉がある間は」
「あります! 全力であります!」
「全力であるとは」
「あります!」
コハルは立ち上がった。
勢いがよすぎて、膝で地図を少しずらす。
「採用です!」
「俺が雇われる側なのか」
「はい! 住み込み看板結界師です!」
「聞いたことがない職業だ」
「今作りました!」
「作るな、そういうものを」
「でも、ぴったりです」
コハルはにこっと笑った。
「八百万亭の新しい名物です。源泉かけ流しと、住み込み結界師」
「前半だけでいい」
「いえ、後半が大事です」
「大事にするな」
コハルはもう聞いていなかった。
帳場へ走っていき、何かを探し始める。紙。筆。墨。古い木札。
「何をしている」
「宣伝です!」
「早い」
「商売は速度です!」
「たぶん違う」
コハルは筆を取り、木札に文字を書き始めた。
集中すると耳が少し伏せるらしい。筆先は迷いながらも、勢いだけはあった。
しばらくして、彼女は満足げに札を持ち上げた。
『源泉かけ流し・結界保温の宿』
字は少し曲がっていた。
だが、悪くなかった。
コハルは玄関へ走り、戸の横にその札を掛けた。
がたついた戸の隣。
古い看板の下。
『本日空室あり』の札の上。
新しい木札が、少しだけ誇らしげに揺れた。
アルトはそれを眺めた。
「結界保温」
「はい!」
「客に伝わるのか」
「伝えます!」
「どうやって」
「これから考えます!」
コハルは胸を張った。
不安しかない。
だが、不思議と、昨日よりは頼もしくも見えた。
玄関の外では雪が降っている。
湯守町はまだ暗い。
客もいない。
宿の借金も、壊れた設備も、ぬるかった源泉の問題も、何ひとつ完全には解決していない。
それでも、八百万亭の玄関には新しい札が掛かった。
古い宿が、ほんの少しだけ前を向いた。
アルトは肩をすくめる。
「しばらくだからな」
「はい!」
「本当にしばらくだ」
「はい!」
「聞いているか」
「はい! 末永くよろしくお願いします!」
「聞いていないな」
コハルは笑った。
アルトは、もう一度ため息をついた。
面倒なことになった。
間違いなく。
けれど、宿の奥からは温かい湯気の匂いがした。
それだけで、もう少しだけなら悪くないと思った。




