3-1 最初の改装は、だいたい勢い
翌朝、コハルは帳場に紙を広げていた。
一枚ではない。
五枚でもない。
帳場の机いっぱいに、紙、紙、紙。古い帳簿の裏。包装紙の切れ端。使い終わった納品書の余白。温泉饅頭の包み紙まで混じっている。
その中央に、コハルは筆で大きく書いた。
『八百万亭・大復活計画』
字は勢いがあった。
勢いだけはあった。
アルトは朝食の芋粥を食べながら、それを眺めた。
「大きく出たな」
「大きく出ないと、大きく儲かりません!」
「儲かる予定なのか」
「もちろんです」
コハルは胸を張った。
そして別の紙を広げる。
そこには売上予測らしきものが書かれていた。
一日目。客十人。
二日目。客三十人。
三日目。客百人。
七日目。町が復活。
十日目。世界一。
アルトは匙を止めた。
「これは予測か?」
「はい」
「願望では」
「願望を数字にしたものです」
「それは予測ではない」
「前向きな予測です」
支出欄もあった。
薪代。
食材費。
修繕費。
布団代。
宣伝費。
その他。
その横に、まとめてこう書かれている。
『なんとかする』
アルトは紙を指さした。
「これは」
「支出計画です」
「支出を計画する気がないだろ」
「あります。なんとかします」
「なんとかする、を予算項目に入れるな」
「アルトさんの結界があれば、なんとかなります!」
「俺を予算にするな」
コハルは少しだけ考える顔をした。
そして、支出欄の横に書き足した。
『アルトさん』
「書くな」
「でも実質そうなので」
「消せ」
「では、仮で」
「消せ」
コハルはしぶしぶ筆で線を引いた。
ただし薄かった。
未練が見えた。
「まず、何をするつもりだ」
アルトが聞くと、コハルの耳がぴんと立った。
「基本改善です!」
「基本」
「はい。昨日、アルトさんがちょっと結界を張っただけで、宿がものすごく良くなりました。ということは、ちゃんと張ったらもっと良くなります」
「ちょっとで十分だと思うが」
「商売に十分はありません!」
「危険な言葉だな」
コハルは地図と間取り図を並べた。
玄関。
帳場。
廊下。
客室。
厨房。
保存庫。
浴場。
脱衣所。
赤い丸がいくつもついている。
「ここです。まず玄関の冷気です。お客様が入って最初に寒いと、もう負けです」
「何に」
「第一印象に」
「なるほど」
「次に廊下の床冷え。湯上がりのお客様が、足元から冷えます。これは温泉宿として重罪です」
「重罪なのか」
「重罪です」
コハルは真剣だった。
「客室は、ぐっすり眠れるようにしたいです。厨房は火がすぐついて、料理が冷めにくいように。保存庫は饅頭の餡が凍らないように。浴場は滑らないように」
「滑るのか」
「私がよく滑ります」
「客より先に女将を守る必要があるな」
「はい!」
返事がいい。
アルトはため息をついた。
「わかった。最低限だぞ」
「はい。最低限をたくさんお願いします」
「言い方」
最初に玄関を直した。
直した、といっても建具を削ったわけではない。歪んだ戸の隙間に、薄い冷気遮断結界を張っただけだ。
戸を開ければ外気は入る。
だが、閉めたあとは冷気が流れ込まない。
足元に溜まっていた冷たい空気も、土間の外へ逃がす。
コハルが玄関に立ち、目を丸くした。
「玄関なのに寒くありません!」
「玄関は普通、寒くない方がいい」
「うちは普通ではなかったので!」
次は廊下だった。
床下から上がる冷えを遮る。
同時に、床板のきしみを少しだけ抑える。完全に消すと古い宿の味がなくなる、とコハルが言ったので、ほどほどに残した。
コハルが廊下を歩く。
ぎし。
音はする。
だが、前より柔らかい。
「すごいです。鳴るけど不安じゃないです」
「高度な注文だった」
「この宿の味なので」
「味が多い宿だな」
そして問題の滑り止め結界。
浴場の入口、脱衣所、廊下の角。コハルがよく走る場所に、足元の摩擦を調整する結界を張った。
「走るなよ」
「走りません!」
コハルはそう言った直後、帳場へ戻ろうとして廊下を走った。
そして角で滑った。
「わっ」
転ぶ寸前。
足元が、ぴたりと止まった。
まるで床が優しく掴んだように、コハルの身体だけがその場に残る。手に持っていた紙も、散らばる直前で空中にふわりと留まった。
コハルは片足を上げた変な姿勢で固まった。
「……転びませんでした」
「転びかけたな」
「転びませんでした!」
「走るなと言った」
「女将は忙しいので」
「忙しさを免罪符にするな」
コハルは姿勢を戻し、足元を見た。
「これ、お客様にもいいですね。湯上がりの転倒防止。ご年配の方にも安心です」
「お前用だったんだが」
「商品化できます」
「するな」
「します」
「するな」
次に厨房。
かまどの熱効率を上げる。
火の通りを均一にする。
余熱を逃がしにくくする。
ただし焦げないよう、過熱は防ぐ。
コハルは蒸し器に温泉饅頭を並べた。
いつもなら途中で温度が落ち、蒸しムラが出るという。今日は違った。蒸気が安定している。蓋の隙間から、甘い餡の匂いがふわりと上がる。
「冷めません!」
「冷めないようにしたからな」
「温泉饅頭が、温泉饅頭らしくなっています!」
「今までは何だったんだ」
「ぬるめの饅頭です!」
「温泉と同じ問題を抱えていたのか」
保存庫も調整した。
餡は凍らない。
牛乳は冷えすぎない。
芋は傷みにくい。
漬物は余計に凍らない。
湯上がり客用の牛乳瓶を一本、コハルが取り出す。
手に持って、首をかしげた。
「冷たいです。でも冷たすぎません」
「飲みやすい温度にした」
「湯上がりに最高では?」
「まだ客はいない」
言ってから、空気が少しだけ止まった。
コハルは牛乳瓶を見た。
帳場の方を見る。
空の下駄箱を見る。
廊下を見る。
玄関を見る。
どこにも客はいない。
宿は確かに良くなった。
湯も温かい。
廊下も寒くない。
饅頭も蒸せる。
牛乳も冷えている。
だが、それを使う客がいない。
「……客がいませんね」
「そうだな」
「改善しても、誰も来なければ売上は増えませんね」
「そうだな」
「これは盲点でした」
「かなり大きい盲点だ」
コハルは牛乳瓶を置いた。
そして、両手で頬を叩いた。
「宣伝に行きます!」
「どこへ」
「町です!」
「町の人は、もう知っているんじゃないのか。八百万亭があることくらい」
「存在を知っているのと、復活を知っているのは違います!」
「復活したのか」
「今からします!」
コハルは札を持ち、蒸したての温泉饅頭を籠に詰めた。
手書きの紙も用意する。
『八百万亭、お湯あたたかくなりました』
字は少し曲がっている。
だが、勢いはある。
アルトはその札を見た。
「事実だな」
「はい!」
「地味だな」
「では」
コハルは少し考え、下に書き足した。
『本当に』
「疑われる前提か」
「信用は積み重ねです」
ふたりは町へ出た。
湯守町の通りは、昨日見た時と同じように寂れていた。雪に埋もれた石段。半分閉じた土産物屋。暖簾をしまった旅館。煙の少ない饅頭屋。
コハルは一軒ずつ声をかけた。
「八百万亭のお湯、温かくなりました!」
最初に出てきたのは、土産物屋の老人だった。
「コハルちゃん、また無理してるのかい」
「無理ではありません! 本当です!」
「昨日までぬるかったろう」
「昨日までです!」
「薪でも買えたのか」
「結界師さんを拾いました!」
老人は微妙な顔をした。
「……疲れてるなら休みなさい」
「信じてませんね!」
次の旅館の主人も似たような反応だった。
「八百万亭の湯が戻った? そんな急に?」
「急にです!」
「湯は急には戻らんよ」
「戻りました!」
「コハルちゃん、気持ちはわかるがな」
どこへ行っても、半信半疑だった。
無理もない。
何年もぬるかった湯が、一晩で温かくなる。
すきま風だらけの宿が、急に快適になる。
そんな話を信じる方が難しい。
コハルは笑顔を崩さなかった。
だが、耳は少しずつ伏せていく。
アルトはそれを見ていた。
面倒だな、と思った。
信じさせるには、体験させるしかない。
しかし、体験させるにはまず来てもらわなければならない。
客がいない問題は、思ったより根が深い。
町の端まで来たところで、遠くから足音が聞こえた。
雪を踏む、重い足音。
若い男が一人、通りの向こうから歩いてくる。革鎧は雪と泥で汚れ、肩には剣。腕には浅い傷。息は荒く、顔には疲労が濃い。
その後ろから、冒険者ギルドの制服らしき上着を着た女性が追っていた。
「ジンさん、だから無理しないでくださいって!」
「大丈夫だって。雪狼退治くらいで宿なんか取れるかよ」
「その足で言う台詞じゃありません!」
若い冒険者は、足を引きずっていた。
コハルの耳が、ぴんと立った。
商売の匂いを嗅いだ顔だった。
「アルトさん」
「何だ」
「お客様です」
「まだ客ではない」
「これからです」
コハルは籠を抱え直し、通りの真ん中へ一歩出た。
そして、満面の笑みで声を張る。
「お疲れの冒険者様! 八百万亭のあったかいお湯、いかがですか!」
アルトは小さく息を吐いた。
どうやら、最初の客引きが始まるらしかった。




